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子どもが孤独でいる時間

1804.jpg子どもが孤独でいる時間  
エリーズ・ボールディング著
松岡 亭子訳
こぐま社

もし、アイデンティティの危機——自分が何者であるかがわからないこと——が二十世紀の危機だとすれば、わたしたちは二十世紀の子どもを養育する際、特にこの問題を深く考えなければなりません。

わたしたちは宇宙の入り口に立っていながら、自分が何者であるかを知らないのです。これからさき、わたしたちは、自分が何者であるかを発見し、時間と空間を制覇した技術的進歩に見合うだけの進歩を遂げて、精神的存在としても、新しい次元へと進むのでしょうか。それとも、どんどん退歩して、一段下等な存在になりさがり、つぎに何をすればいいか、おうかがいをたてるために、巨大なコンピュータにおずおずとデータを入力する、よく訓練された事務屋の一族になってしまうのでしょうか。

いったいだれが“タイムアウト”(*0)をとって、今はまだ想像すらされていない生き方が開けてくる新しい次元をさぐっているのでしょう? だれが、夢を夢見ているのでしょう? だれが、幻を見ているのでしょう? どこに孤独の人がいるのでしょう?

孤独の人は、あちこちにいます。しかし、その数はきわめて少なく、しかも、わたしたちはその人たちを生きにくくさせています。氷に閉ざされた山の頂だけが、その人たちが自然に生きられる唯一のすみかなのでしょうか? いいえ、そんなことはありません。なぜなら、孤独は、深い喜びに満ちあふれたものでありえますし、いのちと暖かみにふれて躍動しうるものだからです。希望を失い、孤立しているときよりは、むしろ、求めてひとりでいるときにこそ、人間は、生きとし生けるものとより深い一体感をもつことができるのです。大自然に抱かれて在ることに、喜ばしさとくつろぎを感じる者こそ、ひとりでいることの最も深い喜びを知る者なのです。(57)

最近、我が国のある有名大学の総長が、つぎのような聞き捨てならぬ見解を発表しました。かれによると、我々の時代の最大の危険は、“何もすることがない”状態にある精神であり、これを打破する最上の方法は、学生を一年中、学校に通わせることである、というのです。この教育者はさらにこう述べています。時間こそ、我々が有する最大の資源であり、一刻たりともこれを浪費すべきではない。年間休みなしのスケジュールは、精神と知力を常時活動させ、それによって我が国が厳しい生存競争のトップに立つことが確実となるのである、と。

……むしろ、何もすることがない時間こそが、人を創造的な活動に導くただひとつのものなのではないでしょうか。もちろん、わたしも、時間を正しく使うことは、人並みに心がけています。しかし、そのほんとうに正しい使い方に関しては、外側の予定表作成者より、「内側の予定表作成者」のほうが、よい導き手ではないだろうか、と申し上げたいのです。外側の予定表は、心にとって本当に大事なことを、いったいどうやってそこにくりいれることができるのでしょう。

エイミー・ローウェルは、詩のアイデアが浮かんだとき、それを、ちょうど郵便受けに手紙を投げ込むように、頭のうしろに投げいれておいて、暖まるのをまつのだそうです。そして、そのときが来たら、「到来する詩を迎える」のです。また、産科医の秘書ならだれでも知っていることですが、お産がいつになるかは、かの女の机の上のカレンダーで決められるものではないのです!(75)

わたしたちは、だれでも、自分が子どものころ、ひとりでいるときに感じた喜びの記憶を、心の奥深くに、大切にしまっているのではないでしょうか。わたしの記憶をたどると、ひとりの少女が見えます。ところは、静かな山の湖です。日は空に高くかかり、少女は、たったひとり、小さな手こぎボートで湖のまん中にこぎ出しています。やっとどうにかオールを操れるようになったばかりの年ごろで、少女はひとりでボートの中にすわり、からだいっぱいに太陽の暖かさを感じています。やさしくボートに打ち寄せる水の冷たさと青さ、湖をぐるっととり囲むモミにおおわれた丘の広大さも感じています。少女の心は、暖かさと、大きさと、沈黙の深さに、はりさけんばかりです。これが、世界なんだ。これが、わたしの居場所なんだ。これが、喜びなんだ……。

こういうことが、すなわち子どもがひとりでいることの果実です。自分が誰なのか、何なのか、どこから来たのか、この世界のどこに自分の場所があるのか、を感じること。そして、大宇宙とこのように積極的で安定した関係を結ぶことから、言葉の最も良い意味で、万物と“遊ぶ”自由が生まれます。子どもたちが見たり聞いたりすることは、見事に調律された心の琴線の上をあちらこちらと走り、内に蓄えられていた知識と織り合わさって、新たな想像を生み出します。こうして生み出されるものは、数の公式や、むつかしい社会洞察や、交響楽や、絵画や、詩である必要はありません。美しく秩序ある生活、それを細やかな心をもって生きること、日常の仕事を神の愛のために行うこと。これらは、どんな人間でも成し遂げることのできる、最も気高い統合の形です。もし、そうでないというなら、わたしたちはいまだにローレンス修道士(*1)の足もとにも及ばないことになります。ローレンス修道士は、読み書きもできない、ただの僧院の皿洗いでした。しかし、「われわれの魂は、仕事を変えることによって聖別されるわけではない。今まで自分のためにしてきた仕事を、神のために行うことによって聖別されるのだ。(*2)」というかれのことばは、ニュートンの重力の発見に優るとも劣らぬほど、創造的な内的世界の統合です。(62)

(*0)一般には時間切れの意であるが、ここでの意味は、日常慣れ親しんだ生活を離れ、自力のみでなんとか生きていかねばならないような環境に身を置くことをいう。

(*1)フランスのカルメル会の修道士。神秘家。兵士であったが、38歳で修道院にはいり、視力を失って働けなくなるまで三十年間、修道院の台所の仕事を続けた。これを聞いてパンタカという仏陀の弟子がすぐさま思い浮かんだ。ちなみに彼は自分の名前さえ忘れるほど愚鈍であることに悩んでいたが、仏陀にいわれるまま庭掃除のみをやりつづけて悟りにいたった。

(*2)マイスター・エックハルトの一説が思い浮かんだ。
「自分たちが何を為すべきかということはそれほど考えなければならないことではない。考えなければならないのは、自分たちが如何なるものであるかということである。自分自身とそのあり方さえ善くあるならば、なす業(仕事)は光を放つであろう。われわれが神聖であり真に存在をもつ限り、食事であれ睡眠であれ徹宵であれ、その他何であれ、われわれの業をわれわれが聖化するのである。大いなる存在をもたぬ者は、彼が如何なる事を為そうとも、何事も成就することはないのである。」(316)講談社学術文庫『エックハルト 異端と正統の間で』

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