イエスが生きていたイスラエルでも、「時は金なり」が人の心にしみわたっていたのだろうか。マタイ福音書をみると、彼はそんなフランクリン的思考をブチ壊そうとしていたのがみてとれる。
天の王国は、自分のぶどう園に働き人を雇うため朝早く出かけた人、そんな家あるじのようだからです(二十・一)
この「ぶどう園の家あるじ」は、一日一デナリの賃金という約束で朝から働いていた「最初の者」と、夕から一時間だけしか働いてない「最後の者」にも、おなじ一デナリの賃金を支払うのである。それは不当なあつかいだと抗議する「最初の者」にたいして、彼はこういう。
君、わたしはあなたに何も不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリで合意したではないか。あなたの分を受けとって行きなさい。わたしは“この最後の者にも”あなたと同じように与えたいのだ。わたしが自分のもので自分の望むことを行ってよいではないか。それとも、わたしが善良なので、あなたの目はよこしまになるのか
人よりちょっと「よこしま」なものが、ちょっとだけ富を増やしていく。人よりちょっとだけ広く耕したものが、ちょっとだけ多く収穫をえるように。ちょっとだけ長く働いたものが、ちょっとだけ多めに賃金を受けとるように。
それが幾世代もつづくと、「ヨコシマさん」には資産というものができる。その成り上がりどもは、「長」や「王」という名で「最後の者」を蔑み、家畜のようにこき使う。時の差は富の差を生み、やがて力の差を生みだすのである。
資産からはまず「所有」の観念が生まれる。つぎにその所有者を「殺す」もの、「盗む」もの、その盗みを「偽る」もの、その偽りを「裁く」もの、といったぐあいに、あとは尻取りみたいに「よこしま」が感染し、さまざまな悪徳がウジャウジャわきでてくる。これらはすべて「時の差」というパンドラの箱から出てきたものだ。それにしっかりフタをするのが「家あるじ」であり、天の王国なのである。最後にイエスは次のような「矛盾の一致」でしめくくる。
このように、最初のものが最後に、最後のものが最初になるでしょう
これを経済学の法にすえ、貧富のない社会を築こうとしたのがラースキンだ。彼の著書「この最後の者にも」は、当時の経済学者や一般大衆からもうさんざんにコキおろされたが、ガンディーは自給自足の共同農場「フェニックス農園」をひらき、その実践をもってラースキンにエールを送った。
自給自足というライフスタイルは、自分が労働者であり、経営者であり、消費者でもある。だから自分だけで経済サイクルが成立してしまう。ここには銭カネの立ち入るすきがない。自分の時間を売っても、それを自分で買いとっているからだ。時間系がひとりで独立しているのである。これがガンディーのめざす「スワラージ(自治)」の実践だ。金を無用の長物にすることで、「時は金なり」を格言から虚言に格下げしてしまう。
しかしジャイナは自給自足にむかわず、むしろ小売業や金貸業といった貨幣経済にどっぷりとつかったような商売を営みながら、それでいて金や権力には無執着に暮らしている。こちらもかなりハイレベルな「矛盾の一致」といえそうだ。
ジャイナ日記31より





大晦日ですね。
最後に素晴らしいコメントを拝見しました。
私がnarajinさんのサイトに辿りついたきっかけは「Brother Sun Sister Moon」ですので、より一層嬉しいです。
narajinさんの大変さに比べれば自分の大変なぞ全然大変ではないのですがそれでも自分の人生の中で大変楽しくもあり、苦しくもあった一年でした。
特に秋から冬にかけてがそうでした。
信じていた人の言葉と言動が嘘だったという事がそうでした。
そんな霧のような状態の中でふと図書館のカウンターを見上げると「愛すること信ずること」という本が目に留まりました。
その本の一番最初に「さばくな」という言葉がありました。
霧は雨になりました。
雨の中で私は三浦綾子さんの書かれた本を貪るように読みました。
雨は晴れました。
「嘘だったとしても最後までその人を信じた私は、結果として裏切られていない」と思うのです。
だってだれにも「さばけない」ことだったと思うからです。
自分に都合の良い解釈にも思うのですが、相手の人に対して負の感情はありません。
もしかしたら私の方が相手を傷つけていたのだと思います。
ドナー提供に対する考えも深いものになりました。
もし自分が選出されたら「いえいえお互い様です」と本当に素直に思えます。
無償の労働に伴いがちな「する側」「される側」の視点が違って見えます。
それから今年最後になかなかお話できなかった「デニムのハンチングキャップ」についてお話させて下さい。
帽子の贈り物を探しに浜松市街へ足を運びました。
なかなかピン!と来る帽子が見つからず最後に昔からある帽子屋さんへ行きました。
あまりにも長く物色しているのも気が引けて「頭に負担がかからないもの、汗をかいたら洗えるもの、顔映りが良い色のもの、できれば染料も天然であるもの」など具体例をあれこれ上げながら店内を物色していました。
店員のおばさんに「ご入院されている方のお見舞いですか?」と尋ねられ思わず
「あげる方、白血病の治療をしているので」とこたえてしまいました。
するとおばさんいからは「実はね私の従兄弟も20年前ぐらいに白血病になってね、親戚中でバスに乗って血をあげに行ったのよ〜、あの頃はまだ献血ぐらいしか治療がなくてね〜、結局従兄弟は亡くなってしまったの・・・」と返事がきました。
「そうだったんですか」。としか私は答えられず、でもその後おばさんはより一層親身になって一緒に帽子探しをしてくれました。
ですから夏の訪問時に何だか縁起が悪いようでお話ができませんでした。
でも今はあのおばさんの気持ちがnarajinさんの快癒に貢献してくれていると思うのでついお話をしたくなってしまいました。
こういった経験を通して出会った思想や思った気持ちが今年一番の宝物です。
ありがとうございました。
来年も宜しくお願い致します。