ヴェイユとジャイナとの共通性は、「逆創造」という言葉に如実にあらわれている。
これは創造の本質を「放棄」としてとらえるというヴェイユ独特の表現である。もちろんこれは神の創造行為の本質でもあり、十字架を背負うイエスの姿そのものでもある。つまり愛の本質もまた放棄なのだ。
ジャイナの苦行も積極的な自己虐待作業というより、むしろ逆創造としてとらえるべきであろう。タパスの本質は「なにものでもないこと」にほかならない。この全的な放棄の証しとして知られるのは、ゴーマティーシュヴァラがとったカヨトサガラ(立禅)の姿だ。瞑想こそ「マイナスの呪術」の完成形といえるであろう。
またヴェイユによると、逆創造の実践は狂気の形をとるという。よって真に偉大な人物とは、狂人でなくてはならない。そしてまさに狂人こそ、「裸で死んでいる」状態で我々の前に姿をあらわす。ジュリアン・グリーンは『アシジの聖フランチェスコ』のなかでこう語る。
狂人は裸になりたいとの偏執を持つ。彼もまた、自分が狂人だと感じていた。怒りの狂人にして、愛の狂人だと。
この聖人の逸話もやはり、逆創造行為が神話化したものだ。その点においては作曲家メシアンが語ったように、彼は「イエスにもっとも近い人間」といえるであろう。
彼フランチェスコにいったい何をおそれることがあろう。一言も発せず、彼は猛然としたあわただしさで衣服を脱ぎ去り、一枚また一枚と父の足元に投げやったのだ。衣服のことごとくである。ズボン下にいたるまで。おまけに、彼がちょうど持ち帰ってポケットに隠していた、例の呪われた財布も同様であった。今や彼は、生まれた日のように裸であった。第二の誕生に際して、彼はこの日、裸にもどったのである。
(ジュリアン・グリーン『アシジの聖フランチェスコ』)
「第二の誕生」とは、全的な放棄によってはじめて達成される。イエスの死と復活はそれが神話化したものだ。これはシャーマニズムにおいて「肉を脱ぎ捨てた骸骨」が不死なる霊魂を象徴するのにひとしい。裸形こそ、死と復活の儀式における古来からの「装束」なのだ。その点ではイエスも裸形で描くべきであろう。トマス福音書のなかでイエスもこう語っている。
あなたがたが恥を取り去り、着物を脱ぎ、小さな子供たちのようにそれらを足元におき、踏みつけるとき(中略)、あなたがたは恐れることがないであろう(三七)
このグノーシス文書にみるイエスの言葉が、マハーヴィーラのまさにいいたかったことなのだと思う。ジャイナの僧侶たちは文字どおり、「着物を脱ぎ、小さな子供」のように無垢に、純粋に人生を生きぬこうとしているのだ。自分が、自分以外の何者でもなくなったとき、自分の魂は生き生きして、生活すべてを「裸形化」していく。それは無時間性を生きることであり、自由そのものなのではないか。




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