近代精神から見てしばしば、というよりほとんどいつも批判の対象となり、軽蔑あるいは誤解の対象となるのは、観想修道会である。カルメル会のような観想修道会は、原則としていわゆる労働はしない。もっぱら考えてお祈りしているわけである。毎日毎日黙々とお祈りしている生活の価値は、世俗においてはあまり認められないようである。余計者と思われるおそれすらある。なにしろあまり働かずして食っているのだから。ところがカトリックの中では、こういう修道会がいちばん重要だと言ってもよい。収入のための努力をしないで神の恩寵を味わってくれる人々が社会にいるということは、きわめて貴重なことなのである。
われわれは働かざるを得ずに働くことが多いので、しばしば高いところを見るのを忘れる。毎日あくせくと働いてばかりいるわれわれにかわって--その意味では受動的な立場にあって--神の恩寵を味わってくれる人たちが同じコミュニティーに、あるいは同じ社会にいるということは、非常に好ましいことであると考える人生観もあるのである。
近代はすぐに役に立たないものを切って捨てることに熱心になった社会と言えよう。これがアメリカでは実用主義になったわけであり、その代表的な教育学者のジョン・デューイのごときは、「黙想などやっている人間を賢人というのはおかしい、それは要するにエゴイストではないか」と言っているのである。もっと実際的なほうでは、ヒトラーはたくさんの精神薄弱者を集めて殺してしまった。これも無用者は殺せという近代思想の極端まで行った形である。
しかし、中世においては精神薄弱者ですら歓迎されていた傾向があった。今でもベルギーには村じゅうこぞって精神薄弱者を住まわせていっしょに暮らしているところが残っている。
渡辺昇一『知的風景の中の女性』P137
(*)メキシコでも同種の習俗があった気がする。調べておこう。





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