これは難しい質問です。それはどうしてかというと、自律的だったかどうかいう問題ではなく、音楽療法に求めていたのは最終的に自律ではなかったということを音楽療法によって知ったからです。
他律(規則)だらけの病棟内で、「自分が自分でありたい=自律」と思い、音楽療法をその達成手段として活用してみたつもりでしたが、それは音楽療法なしでもあるていど実現できることでした。とくに、骨髄移植のまえの一ヶ月間、ギタレレを思いっきり弾いていた時期など。誰の指図や制限を受けることなく、思うがままに毎日鳴らすことができたからです。
正直、音合わせはあまり楽しくありませんでした。これは単純に時間がなさすぎたということも原因のひとつですが、何だか自分のわがままを音楽療法士さんに無理矢理おしつけている感じで、手応えのない時間であったからです。まるで自分だけ口泡とばしてしゃべりまくっているような、独りよがりでみっともない感じでした。
ですから当初の目的とは矛盾しますが、寝たきりになってもっぱら受動的音楽療法一本になってからのほうが、「音楽のちから」をより強く感じることができました。これは患者が自律的に音楽をコントロールするよりも、「音楽のちから」そのものに頼りきったほうがより効果的だということかもしれません。つまり、お互い自律的であると同時に、他律的でもありうるということです。
音楽療法士さんを呼んで「さあ何をしようか」となったときに、前もって音楽療法士さんが準備したシナリオどおりに、予定調和的に進めていくのもいいですが、最初に何かルールのようなものを設定したら、あとはお互い自由に音を出したりするほうが面白い時間になると思います。ミニマル・ミュージックやハプニングの考え方ですね。「カリンバ」や「倍音玉」を鳴らしたり、それについて話したりした時間はとても面白かった。それにくらべると、私はあまりにも準備しすぎていました。それが自律的なんだ、いいことなんだと気負いすぎて。
このレポートを書くのは大変ですが、まるで苦にならずむしろ楽しく感じるのは、それが音楽療法士さんとの「合律」作業だからかもしれません。音楽療法も、ひとりぼっちでは成立しない以上、そこには患者と音楽療法士とのあいだにコラボレイティヴな共同作業があるべきでしょう。自律と他律を超えたとき、私はいちばん自律的だったと思います。




> 自律と他律を超えたとき、私はいちばん自律的だった
最近、ワタシはヒトの行いを「随意」と「不随意」という風に考えるようになってます。
この関係は、不随意の上に随意が乗っかっている感じ。この不随意は、ほとんど万人に共通している。このことに今更ながらの驚きが隠せません。
自律も他律も随意を構成していると思うので、これらを超越したときとは、自己の随意を俯瞰できたということなのではないでしょうか。