1885年『ツァラトゥストラはこう語った 』
哀しいかな! 人間がもはやどんな星をも産み出せなくなる時がやってくるだろう。哀しいかな! もっとも軽蔑すべき人間の時代がやって来る。すなわちもはや自分自身を軽蔑することもできない人間の時代が。
見よ。私は君たちにそういう人間、末人を見せてやろう。(*1)
--われわれは幸福を発明した--
末人たちはそういって、まばたきする。
病気になることと不信を抱くこととは、彼らにとっては罪である。彼らは歩き方にも用心深い。石に躓く、あるいは人に躓く者は愚者とされる!
牧人は存在しない。存在するのはただ一つの畜群だけである! 誰でもみな平等を欲し、誰でもみな平等である。...(*2)
彼らは怜悧(れいり)であり、世に起こったいっさいについて知識を持っている。だから彼らの嘲笑の種子はつきない。彼らもやはり争いはする。しかしすぐに和解する。--さもなければ、胃をそこなうことになるからだ。(*3)
彼らはささやかな昼の快楽、ささやかな夜の快楽をもっている。だが健康をなによりも重んじる。
--われわれは幸福を発明した--
末人たちはそう言って、まばたきする。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 - 1900年8月25日)
(*1)「私が語るのは、次の二世紀の歴史である。......すなわちニヒリズムの到来(ニーチェ)」。
人間は昔より多く理解し、多く寛容になったかもしれないが、それだけ真剣に生きることへの無関心がひろがっている。すべての人はほどほどに生きて、適当に賢く、適当に怠け者である。
(*2)彼らは群をなして存在し、ときに権威ある者を嘲笑し、すべての人が平等で、傑出した者などどこにもいないと宣伝したがっている。それなら本気で、権威と敢然と闘おうとしているかというとそうではない。......彼らはすぐに和解する。「そうしなければ、胃をそこなうことになるからだ。」
せいぜいその程度の保身、その程度の衛生的配慮が、現代人の掲げているご立派な標識なのであって、人間はこうしてだんだん小粒になっていく。
現代の指導者は民衆の喜ぶことしか言わず、一方民衆は、忍耐して困難を解決していこうとする気持を最初から持っていない。どっちにしても「煩わしすぎる」のである。今よりいっそう安楽で、いっそう快適な生活条件を目指すということ以外に、個人も国家も生の目標を見いだせなくなっている。
(*3)今や「地球は小さく」なり、「怜悧な」人間たちは、「地上に起こったいっさいについて知識を持っている」。世界に窓を開いた高度の情報社会では、統治者はつねに大衆の嘲笑の対象とされ、責任ある決定をなし得ない。すべての政策決定は、大衆社会における漠然とした好ましい印象によってなされていく。
口あたりのいい福祉とか、ものわかりのよさを売り物にする進歩的ポーズとか、そんなことばかりに政治家は血道をあげて、憎まれる損な役を誰も引き受けようとはしない。こうした風潮に抵抗する人間が出てくれば、民衆はたちまち「嘲笑の種子」を見つけたとばかりに大喜びし、無責任に愚弄するか、だからといって本気に反抗するのでもなく、怜悧な彼らはすぐに慰撫され、和解してしまう。というようにして、どこにも人間の真に価値ある行為を見出すことが出来ず、すべては茫洋とした情緒のままに流されて動いていく。
西尾幹二『ニーチェとの対話』P94 1978





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