昭和二十八年、...私たちはよりよい自分の生活を築こうとして誰いうとなくハーモニカバンドを組織しようと、眼の見えない者十数名が秘かに会したのであった。...
「夕焼小焼」の合奏を始めた時そこには盲人という意識がまるで遠い世界のように薄らぎ、明るい弾んだ気分が充ちていた。私は自分の打ちひしがれた境遇の中で、音楽という慰めによってどれだけ救われてきたか知れないのでこの小さなグループをぜひ育てていきたいと思った。
やがてこのグループに「青い鳥」楽団という名称が与えられた。互いの心の中にある幸福を発見しようという訳だ。...
しかし眼がみえず、指も麻痺しているひとたちのグループであるから、まず唇と舌を頼りに読む点字楽譜の勉強から始めなくてはならなかった。「唇が痺れ、舌先から血が滲みでる」ような努力と日数を経て、ようやくともに音楽を奏でることができるようになったときのよろこびー
...かつては不自由な肉体を持て余していた私達は無限の明るい広がりを目の前に見るような慄きをさえ覚えながら貪るように勉強していった。それは全く新しい世界である。生活の全てが非生産的であったのに対し、それは一つのものを産み出そうとする積極的な体験の世界であった。
...しかし団員の中には、舌先でさえ点字を読めない者がいた...
...楽譜の全てを口伝えに暗記してもらうほかない。その結果面白いものがうまれた
或る者は唇に触れるハーモニカの感触によってドレミファの音階を頭に描き、或る者はグラフのような波形をえがき、或る者は色彩別に暗記して行くというのであった。...
できないと思われることでも皆の力で征服した時、幸福の青い鳥は何時の間にか心の中で大きく羽ばたいていた。
萎えた手に握りしめる一個の小さなハーモニカを手にして私はいつも慰められている。皆でうみだした悦びと希望が細かく優しい音色とともに夕べの窓辺でいつまでも私の心を揺り動かしているのだった。
神谷美恵子『生きがいについて 』P212 みすず書房
※文はこの楽団の指揮者であり、ハンセン病で盲人患者である近藤宏一のもの。
原典:「幸福の青い鳥」楓の蔭9月号 1965年




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