厠におつるなり

すべて、外から人の中に入ってくるものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、に出て行くだけである。(マルコ福音書19節)
...ギリシア語の原典におけるこの語(下線部)は、アフェドローナであり、その意味するところは「便所」であって、「外」などという意味ではない。
ところがなぜこの語を、私が引用した口語訳も、最近の共同訳や、新共同訳も、みな「外」などと訳出するのだろうか。おそらくは、イエスの語ったことばのなかに「便所」などという語が出てくることに現代日本の翻訳者たちは違和感を抱き、それはイエスに、あるいは聖書にふさわしくないと考えて、そのように訳したのだろう。
...便所とは何か不潔で、イエスが口にするのにはふさわしくない語であろうか。否である。なぜならば、世界のだれが、便所に行くことなしに生きていくことができるか、ということを考えれば、その答えは明らかである。それは、それなしにはだれも生きていくことのできないものであり、少しも汚れたものではない。そしてイエスは、まさにその人間の現実を直視して、何々を食べてよいとかわるいとかといった、そうした外面的なことがらは、まさに「便所に出ていくだけだ」と言い放ったのではないか。
それなのに、そうした外面的なことがらはどうでもよいことなのだとイエスが語っているまさにその箇所において、イエスの口に便所という語をあてはめるのは不敬にあたるのではないかという外面的なことがらに、これらの聖書の翻訳者たちはこだわっているのである。
ちなみに、文語訳はこの箇所を、「これ心に入らず、腹に入りて厠(かはや)におつるなり」と正しく訳出している。このようなよき模範があるにもかかわらず、より新しい聖書訳が、「外」などと訳していることのなかに、キリスト教における聖と俗に関する誤った理解が一般的に浸透しているという事実が浮き彫りにされているように思われる。(27-28)

青野 太潮『どう読むか、聖書 

※訳出の正誤は別にしても、イエスの過激な発言には、やはり文語訳がビシッときまる。
※新訳になりかえって誤訳が増したという書物をたまにみかけるが、聖書も例外ではないということか

訃報つづく

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