記事のカテゴリ:

 

小島一郎のこと その2「カメラ毎日1963年9月号」

kojima02.jpg

ヤフオクにて落札。小島一郎ファンどうしの熾烈な争いになるかと思ったら入札したのはぼく一人だった。500円

mainichi.jpg

なぜこの号が欲しかったのかというと、「わたしの技法」と題して小島本人が自身の作画手法を解説しているからだ。前回紹介した写真集の巻末にある解説(学芸員の高橋しげみさんによる全くすばらしいもの)を読んだ方ならば、彼が暗室でいったい何をしていたか大いに気になるはずだ。しかも小島本人の解説となればなおさらであろう

そしてもうひとつ、これは実際にページをめくって気づいたのであるが、この号の「今月の写真家」という頁に「ひたむきで純粋な 小島一郎」と題して吉村伸哉氏が切ない一文を書いている。この号が発行されてから一年もたたない1964年7月7日、小島は39歳という若さで帰らぬ人となった
小島の写真には「死の影さえ感じる」と吉村氏は書いているのであるが、これは彼の鋭い予見というよりは、当時の多くの写真家が暗に感じていたムードではなかったか。とくに、晩年にみられる抒情否定のハードトーンな作画、現実界とはとうてい思えぬ、風景写真というにはあまりに彼岸的な世界には誰しも死を連想するであろう

抜き書きするつもりが、またしても全文打ちこんでしまった。次回は「わたしの技法」をとりあげたいとおもう。

ひたむきで純粋な 小島一郎
小島一郎写す「津軽」や「凍れる(しばれる)」というのは、いってみれば荒地願望であり、廃墟願望であり、つまるところは、島国的叙情というわれわれのビテイ骨につながるものなのだろう。

……が、はたしてそう決めつけるだけですましていいだろうか? 彼の写真をじっと見ていると、なんだかノーといいたい気がしてくる。彼の写真はそれにしてもあまりに暗い。真っ暗だ。救いがない。……平凡な感傷ではこれほど途方もない暗やみを直視できまい。感傷や叙情をこえて、暗澹(あんたん)とした一種の絶望とでもいいたい境地が表現されている。それは死の影さえ感じさせるものだ。

小島一郎は男四人、女五人の九人きょうだいの長男だ。容貌が似ているのでよく間違えられる週刊新潮のカメラマン小島啓祐氏はこの人の次弟にあたる。

厳父の平八郎氏は生業のオモチャ屋をやめて写真材料商になったほど写真趣味に打ち込んだ戦前の有力地方作家。末弟の敏郎君は、写真を出て稼業を継いでいる。写真一家である。

が、長兄小島一郎の場合は、なりたくてプロカメラマンになったわけではない。大陸で予備士官学校に入った年終戦になり、復員した彼は、代用教員をやったり、小さな会社や県庁に勤めたりなど転々と職をかえていたが、二十九年ごろ、写真キチガイの友人にそそのかされて彼もカメラを持ちはじめ、やがて、アマチュア活動をはじめるようになる。地元の新聞社の主催で故名取洋之助氏の講演会が開かれたとき彼も聴衆のひとりとして参加していた。そのとき名取氏は彼の写真を評して、この作者は異常性格だ、といったそうだ。

それからしばらくたった三十二年の十月に、名取氏は岩波の仕事で八甲田の酸ヶ湯にやってきた。たまたま小島もそこに行きあわせていた。名取氏は一度会っただけの彼と、彼の写真をよく記憶していた。小島は名取氏にいきなり、東京で個展をやりたいが、と切り出した。

小島は、おそらく名取氏が育てた最後の弟子だろうが、彼はこの末っ子弟子を異例なほどかわいがったようである。津軽シリーズの撮影進行を心配するのあまり、わざわざ泊まりがけで名取氏が青森までやってきたことさえあった。……こうして個展「津軽」は開かれ、異才小島一郎の名前は中央にまで知られた。三十三年の六月のことだ。

そのころの小島は勤めもやめ、稼業を継いだ格好になっていたが、苦手の商売と、アマチュア活動の二重生活に疲れきっていた。名取氏のすすめもあり、プロになる決心をし。三十六年の八月上京してきた。

しかし、彼は東京で、しかも写真で食うにはあまりにも無器用だし、純粋すぎた。はじめに某工房の社員になって月給三万円をもらうことになったが、自分の能力がその月給にさえ値しないのではないかと悩んで一ヶ月でやめた。それから津軽の写真の持ちこみをしたり、DPの下請けをしたりいて細々と食った。

だけどそんなことで、四畳半と三畳半の二間で一万円もボラれるような東京の生活に勝てるわけもない。とうとう今年の四月二日に奥さんと子供二人をひとまず奥さんの実家に預かってもらうことにした。……が、皮肉なもので、翌日の四月三日に週間新潮の「東海道五十三次」の仕事がきたのを皮切りに、次々と仕事が舞いこみはじめた。

ちょうどこの文が活字になるころ、懸案だった彼の処女作品集「津軽」が石坂洋次郎と方言詩の高木恭造両氏の解説で、新潮社から発刊される。どうやらこの人のプロ生活にもわずかながら日がさしはじめたようである。いや、この人のまれな才能を考えれば、もっと日がさしていいはずだ。(吉村伸哉)

「今月の写真家」カメラ毎日1963年9月号

 

サンハウスの夜

金曜日は風雨のなか弘南バス「キャッスル号」で仙台へ。片道5,090円のところを障害者手帳を使って往復5...

小島一郎 平凡なものを料理する

青森県立美術館の小島一郎ギャラリーに置いてあった「フォトアート1963年6月号」の現物をヤフオクで入手。...

津維人の会に行った

メンバー全員がTwitterつながりという弘前では珍しい呑み会が先週ありました 「津軽を変えた...

小山せんべい

週末あたりから弘前もようやく春めいてきた。小屋から自転車を出して油を差したり空気を入れたりしている。体の...

ハチ公の冬

真央ちゃんみたいな目でみつめないで春はもうすぐだよ駐禁ハチ公...
 

レコメン魂

  • Kamikaze 1989
  • Pinnacles
  • 80年代TDサウンドの核 PPG
  • Exit
  • Hyperborea
  • FAMILIAR COMPUTING WORLD
  • EGGレコード抜き書き
  • Ignacio
  • Bruits et Temps Analogues