2度の脳内出血に襲われ、左半身に重い障害がある高橋良三さん(60歳)。2008年春、四国300キロをひたすら歩く過酷な旅に挑戦した。高橋さんは病に倒れる前、世界中を飛び回る営業マンだった。生きる希望を取り戻すためにひたすら歩き続ける高橋さんの旅に密着する。
4月14日
愛媛県四国中央市。
四国を歩いて旅するため東京からやってきました。高橋さんは二度の脳内出血で左半身に重い麻痺が残り、言葉も不自由です。左足にはほとんど力が入りません。この装具で足首を固定します。この日は旅の初日。2ヶ月かけて300キロ歩くつもりです。
不安は なくはないけどね
やってみなきゃわからないしね
5キロ以上歩かないと
問題が出てこないから
今日はそれ以上歩いて
今日1日で問題を出し切るような
テストウォーキングにしたいと思います
一応今日はできるところまでやるから
8キロ以上は 歩こうかなと
思ってます できれば10キロね
―ここですか 最初の一歩は
とりあえず ひたすら歩きます
...
怖いよ 歩道が切れてるでしょ
―いけます?(一歩一歩慎重にあるきます)
...
歩き始めて3時間 最初の休憩です
意外としんどいな
もっと楽に行けると思ってた
お昼はおにぎり一個だけ。食べるのに時間がかかるため、少しでも時間のロスをなくそうという苦肉の策です。歩くのにかかせない装具も、ずれると足に食い込んで痛みます。
午後4時。ひとつ先の信号を今日のゴールに決めました。しかし...
夕方5時。ようやくゴールにたどりつきました。歩いた距離のはおよそ6キロ。この日の目標には届きませんでした。
これ以上は危ないよ。これ以上歩いたら 倒れるよ
私が高橋さんと出会ったのは去年の9月。高橋さんが1回目の旅をしていたときのことです。カメラのシャッターを押してほしいと声をかけられたのがきっかけでした。その日、偶然同じ宿で再会しました。私の問いに自らの半生を話してくれました。
高橋さんは大学卒業後、電子楽器のメーカーに就職。世界中を飛び回る優秀な営業マンでした。仕事相手は、数々の一流ミュージシャン。充実した日々を送っていました。しかし、42歳の時、人生が一変します。
脳内出血。体調がすぐれない中、無理をして海外出張をしていたときのことでした。
リハビリでもね とりあえず
社会復帰できるような状態とか
クリアできていれば
いいかもしれないけど
全然めどが立たなかった
不安も不安 後悔と不安が
交互に来るような感じ
だからもう何度となくね
病院の屋上に上がってね
こんなにやって社会復帰できないなら
(生きている)意味がないかなって
思ったりもしました
生きる希望すら感じられない日々。そんな高橋さんを支えたのは世界中の仕事仲間でした。毎日のように届く激励の便り。みんなが一緒に闘ってくれている。その思いでリハビリにはげみました。
一度はあきらめた四国縦断の旅。「もう一度生きたい」と家族に打ち明けたとき、二人の子供も、パートナーも、反対しませんでした。どんな困難があっても、自分自身が納得のいく生き方をしてほしい。出発前、パートナーがかけてくれた言葉です。
4月30日
旅は今治市に入りました。この日、前回の旅で出会った男性が宿を訪ねてきました。松山市に住む、中村修蔵さんです。去年の夏、中村さんの古くからの友人が脳梗塞で倒れ、半身麻痺の障害が残りました。ショックから立ち直れない友人を助けたい。そう思っていたとき、新聞で旅をしている高橋さんのことを知りました。中村さんは友人の妻を連れて、旅先の高橋さんを訪ねました。友人の妻自身も、厳しい現実を受け入れることができず、苦しんでいました。
そのとき、高橋さんは一枚の色紙を手渡しました。
「只、歩く」
この言葉には、二度の病を乗り越えた高橋さんの特別な思いがこめられています。
42歳のとき、脳内出血で倒れた高橋さんは、懸命のリハビリで再び仕事ができるまで回復します。しかし、57歳のとき、二度目の脳内出血。今度ははるかに重い障害が残りました。しかし高橋さんは、この現実を素直に受け入れることができたといいます。
2回目の時は こんな人生もあるんだな
おれの人生はこんなもんと思ったよ
しょうがないじゃない
起きたことは起きたことだし
しょうがないよ
それでね おれはまだ生きていられれば
いいんだと思ったわけ
生きていられるだけで
脳卒中なんて奇跡だと思ったわけよ
そう思うようにしたわけ 自分で
とりあえず生きてるしね
最悪の場合 ベビーフード?
流動食で生きていられれば
いいかなと思ったよ
すぐそういう気持ちになった
そのうちね 生きてさえいれば
いいこともあるかもしれないなと
思ったから
とりあえず生きていようと思った
5月6日。
中村さんが脳梗塞で倒れた友人とその妻を連れて宿を訪ねてきました。私は友人に撮影のお願いをしました。しかし、まだ障害のある自分を人に見せることはできない、と苦しい胸の内を話してくれました。高橋さんの部屋で、4人が過ごした時間はおよそ2時間。友人は病気をしてからほとんど見せなかった、笑顔をみせたといいます。
言いたいこと言えたかどうか
わかんない
何かの形で
結果が出てくれればいいよね
―足の具合はどうですか
靴が最悪だよ 見てこれ
あと10キロ歩ければね
靴も大変だけど 足も大変だよ
旅が始まって三週間。この日、私はずっと聞きたいと思っていたことを高橋さんに問いかけました。
―なぜ、そこまでして歩き続けるのでしょうか?
おれだって毎日へらへら歩いてるけどさ どこかは痛いよ
どこかは我慢して歩かなきゃ
しょうがないよ
だって装具見たらわかるでしょ
ここ食い込んでるでしょ
普通じゃないんだから
常になんかある 問題は
―それでも歩くのはなぜですか?
歩くのはね
なぜ歩くかって言われれば
今自分の身体的な能力を考えて
歩くことしか おれにはできない
歩くことが
唯一できることだと思うから
それで今後の自分の生活に
ちょっとでもそれが役に立てばいいなと思ってる
役に立つかどうかわからないけどね
役に立つと思うよ
どんなことでもやり遂げるというのは大事だし
それから違うことをやればいい
この日、高橋さんのもとに、一通の手紙が届きました。中村さんの友人とその妻からの手紙でした。
もとのように回復しないのなら、死んでしまいたいとさえ思っていたところに、高橋さんが力強く歩んでおられる姿に接し、主人は勇気づけられたようです。
前向きに生きること
あせらず あきらめず
という高橋さんの言葉に、改めて生きる力を揺さぶられました。
おれのほうが泣いてしまう
会ってずいぶん元気づけられたんで
これからもがんばっていくって
最終的には 東京に歩いて会いに来るって言うからさ
楽しみに待ってるよ
自分が歩いたことで こういうふうに
思ってくれる人がいるだけで
ハッピーだよおれは すごく
5月9日
松山に入り、旅の中間地点が近づいてきました。大きな区切りの場所です。出発前、高橋さんは、ある決意を伝えてくれました。
今日はね がんばって
運がよければ松山まで
10キロ完遂したいね
峠を越えて、10キロ先の松山を目指す。今回の旅で、最も険しい道のりです。
上までね
この登りを 歩ききるから見てて
1キロ以上 登り坂が続きます
ちょっとしんどくなってきた
でもOK
言葉どおり、坂を登りきりました。
立ち上がれるかどうか
歩き始めて5時間。ついに松山の市街地に入りました。
ゴールの松山駅まであと2キロ
何度立ち止まっても高橋さんは決してあきらめませんでした
宿を一歩出て まあ
いろんな痛みと闘うわけね 一日一日
だから健常者の場合はほかの
闘いがあるかもしれないね
そういうのと一緒よ
それで一日一日が凝縮して
そういう闘いの日々を
送っているって感じかな
そういうの闘いって 言わないって
言われちゃあ しょうがないけど
おれはそう思う
自分にとっては
勇気がいるんだ 本当に
午後6時30分。松山駅に到着です。
うれしいね
ジャンプできないけどね
しょうがないよ
足がじんじん痛いよ もう
うれしい できると思ってなかったから
うれしいよ
今までね 今回も前回も含めてね
距離 歩けたから
だいぶ力が ついたと思う
4日後、私は高橋さんを見送ることにしました。
どうもありがとう
じゃあまた
ゴールまであと150キロです。
その後、高橋さんからメールが届きました。
5月30日。もうすぐ宇和島に入ります。
暑さがこたえてくるようになりました。
ゴールまであと90キロです。
歩ける喜びを噛みしめて、一歩ずつ歩いています。
NHK教育テレビ:福祉ネットワーク
「ただ、歩く~半身マヒの体で挑む四国300キロの旅~」
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