Death,Dying

August 2, 2008

患者の命が尽きるときがやってくる。痛みは消え、意識は遠のく。ほとんど何も食べなくなり、周囲のことも闇同然でわからなくなる。そういうとき患者の近親は、病院の廊下を行ったり来たりして、その場を去って自分の生活に戻るべきか臨終にそなえて控えているべきか迷いながら、死を待つ苦しみに耐えている。

E・キューブラー・ロス 鈴木晶訳『死ぬ瞬間  』p390 読売新聞社

自分の経験からすると、死ぬ瞬間にいたっては意識もないし、痛みもないので死を怖がる必要などまったくないと思う。ヴィトゲンシュタインの語るように、Deathが「生の出来事ではない」とすれば、それは経験不可能であり、恐れる必要もないということになる。(*1)

むしろDying、死にゆくプロセスというか、「生に属する死」が本人や家族にとっての本当の「死」であろう。仏教が四苦としてあげている「生老病死」の死とはDeathであろうかDyingであろうか。

「言葉を超える沈黙」の中で臨死患者を看取るだけの強さと愛情をもった人は、死の瞬間とは恐ろしいものでも苦痛に満ちたものでもなく、身体機能の穏やかな停止であることがわかるだろう。人間の穏やかな死は、流れ星を思わせる。広大な空に瞬く百万もの光の中のひとつが、一瞬明るく輝いたかと思うと夢幻の夜空に消えていく。臨死患者のセラピストになることを経験すると、人類という大きな海の中でも一人ひとりが唯一無二の存在であることがわかる。(*2)そしてその存在は有限であること、つまり寿命には限りがあることを改めて認識させられるのだ。(同)

私は父を看取ることができなかった。朝方に病院で亡くなったので知らせを受けたときは眠っていた。父は目を見開いて死んでいた。最後に母に何か伝えようとしたのだろうか。母自身も気づかぬうちに死んでいた。真っ黒な便を漏らしていた。

当時の未熟な放射線治療を何度も頭部に受け、いつも「頭が痛い」と泣いていた父だったが、死ぬ瞬間は痛かったのだろうか。この文章を読んで、あの見開いた目を思い出す。

死は生に属する、生誕がそうであるように。
歩行とは、足を上げることであると同時に、足を下げることでもある。

ラビンドラナート・タゴール『迷える小鳥』267節

(*1)訳者の鈴木晶さんによれば、この本を執筆した時点でロス自身にもまだ「死後の生」という考えはまったくなかったというから、死を単なる身体機能の停止というか、乾いたものとして診ていたように思う。

(*2)それぞれが互いを照らしあって光り輝くという「インドラの網」を思わせる。

「ごらん、そら、インドラの網を。」
 私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。(インドラの網 宮沢賢治
Posted by nara at August 2, 2008 9:26 AM | トラックバック
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