恐山院代...南直哉 【きき手】金光 寿郎
自分のやりたいこととか、自分の考えっていったときに、そういわれた人間は、さほど自分のことをまだ知らないし、わからないんです。もっと問題なのは、それを言ってるほうもたぶんわかってない(笑)。
わかっているかのごとくやってるんで、その人に「アンタの自分って何ですか」と聞いたらたぶん答えられない。
これはジレンマに陥る可能性が非常に高いんで、むしろ他者との関係を考えたり、他者との縁を大切にしていくなかで、自然に見えてくるものがあると思うんですよ。
「あ、これが自分には向いてるな」とか「これが自分がうれしいことなんだな」という実感ですね。その実感が自分のなかに積み上がっていくと、それが自然と自分と言われるものの輪郭を作っていくと思うんですよ。そんときにはじめて、自分の像というか、自己イメージみたいなものが、確かなものとして、実感として、ただの観念ではなくて手に入ってくるとぼくは思うんです。
--何もないうちから頭のなかで考えてみたところで...
材料ないですもん。
--現実の、生きた働きとしては生まれてこない...
無理だと思います。ぼくは学生時代とても団体生活ができるタイプの人間ではないと思ってたんです。とろこが道場に入ってみて、完全な団体生活ですからね、しばらくは厳しくて怒られるわ叱られるわの連続で...
--食事の仕方から厳しくて、お箸の使い方から...
そうなんです。入ってみたら自分がどうなんて考えるヒマがないんですよ。言われたことだけ必死になってやってるうちに気がついたらもう完全に団体生活のなかにいるんですよ。そうしてみると最初の自己イメージは何だったの? と。その道場に20年近くいたんですけど、人から「あなたおかしくないですか?」といわれましたからね。だけど、嫌で20年はいられないですから。
--居心地がよかったと。
そうだと思うんですよ。私は学生時代やサラリーマンのころはとてもプライバシーのないようなところにはいられる人間ではないと、ずっと思ってたんですよ。そのときの実感として自己イメージっていうのはあやふやだなぁとは思ったですね。