恐山院代...南直哉 【きき手】金光 寿郎
--「無我」ということもよく誤解される言葉なんですが...
無我っていうのは滅私奉公とは違うわけで、自分探しの対象になるような、確実な何かを設定しても、それは観念で現実には決してあり得ない、あるいは設定しても間違うということを言いたいんだろうと思います。
--そんな自我はありえませんよと
あり得ない。確実に押さえられる自我なんてないということだけを言いたいんだろうと思います。だからそれをひっくり返して、では今いるあなたは? といえば、それ以外のものとの関係のなかで構成されているものだというふうに言いたいんだと思います。
ですから無我っていったときにワガママをいわないとかね、説教か何かに短絡されるとですね(笑)非常によろしくない。それを言いたいんではなくて、もっと深刻な問題なんですよ。本当の自己をみつけて間違っちゃう人っていうのは(笑)。
無我という教えは自分自身にたいする強烈なこだわりとか、自分を探そうというある種の志向を解毒させるものだと。自分の内部に何かを求めて執着していくということは、仏教としては正しい対応ではないというでしょうね。
問題は仏法であって、あんたの個人的な、あなたの今のありようが大事だという問題ではない。一般の社会でいえば、それまでの自己イメージを硬く守って、この内部のなかに何か確実なものを見つけようといったって、原理的に無理だと思うんですね。なぜならそれは自己っていうのは縁として開かれるものだから。
ごく普通の人がやれることっつったらひとつは、思いこみをやめることですね。世の中いっぱい思いこんでやってる。思いこみだけで物を言わないことです。
縁がよくなるということは相手も必ずいいはずなんです。本当の自己というものの思いこみをなくしたところにまたそれまで考えられなかった世界が広がる。意外に簡単っていうか、気づくときは簡単に気づくと思います。(終わり)