旧年は自分にとってどんな一年であったか。微熱のアタマで考えたところ、漆黒に塗り固められた一枚のキャンバスが浮かび上がってきました。これはいったいなんなのかなと考えましたが、答えはカンタンです。絶望と苦しみという顔料で幾重にも塗り重ねられたキャンパスの下地だったのです。
これはまったくしょうがないと思いました。去年ほど苦しかった年は人生でもありません。完治の歓喜から再発の絶望へ。市川團十郎さんじゃないけどまさに無間地獄。それが最初のビジョンだったのです。
でもよく目をこらしてみますと、漆黒のなかに芥子粒のような小さい穴がいくつもみえます。さらによくみますと、淡い灯りが滲んでいます。光の回折現象によって穴の奥から漏れだした光が、まるで宇宙の辺境から地球に届いた星の光のように弱いながらもゆらぎのない光を放っています。
これはなんだろうと考えました。これは記憶の灯りなんだ。記憶が輝いているんだ。漆黒の一年のなかにも、輝く記憶が星のように点在しているんだと気づきました。
それはやりがいのある仕事であったり、魂を洗う音楽であったり、いろんな人からのいろんな助けであり、新しい出会い、友だちとの楽しいおしゃべりであったり、オーディオ研究やおいしいラーメン、おいしい珈琲、家族や姪っ子と語らう時間、ブログに書き殴る自分でした。ああ、こんなにもいろんなことをやった一年でもあったんだと気づきました。
病気持ちではあっても、病人ではない。誰が言ったかはおぼえてませんが、入院漬けの一年にありながら小さく輝いている自分もまたよく見えてきたのです。
もし地球からちょうど百億光年はなれた恒星αがあったとしたら、ぼくたちはいまα星の百億年前のすがたをみていることになります。さらにビッグバン説が正しいならば、この星は地球からどんどん遠ざかっていることになります。しかも現代宇宙物理学の最新の成果によれば、その速さはこうしているあいだにもますます加速しているのです。
ニンゲンが過去を振り返るときも同じだなと思いました。過去は猛烈なスピードで記憶から遠ざかっていきます(おにゃん子クラブとAKB48のあいだに何かあったよな? なんだっけ? )。しかも加速度的に。でも星がその過去のすがたを何万年かかっても地球まで届けてくれるように、ニンゲンの記憶も決して消えないのです。たとえそのほとんどが暗黒物質に呑みこまれてしまったとしても、どこかに必ずあるのです。
目をつぶって記憶の灯りを観測すれば、震災や政治的混乱という漆黒のなかにあっても小さな星々が輝き始めていることに誰もが気づくでしょう。
今年もはや2日が過去になりましたが、これにて賀状がわりとさせていただきます。
本年もよろしくお願いします。
ギューッとしたい人だ。思わずギューッとしたくなる人をさがせばいいんだ。そうかそうかやっとわかったぞとぼくは街へ意気揚々と繰り出してギューッとしたい女性をさがした。
雑踏のなかに一人の女性の後ろ姿が目にとまった。あの子がギューッとしたい子なんだろうか。どこか高校の同級生ににていた。
ぼくは雑踏をわけつつ彼女を追いかけた。しかし彼女の姿は近づけどもしだいに小さくなり、視界から消えいりそうになった。
彼女をギューッとすることができたらぼくが結婚したい人かどうかわかる。でも追いつけない。これじゃ彼女が誰がなのかさえわからない。このままじゃもう二度と会えないかもしれない!
ハッとして目を開けたら病室の白い天井が眼前にひろがっていた。AM5:30。体温計を脇の下にはさむ。思った通り熱がでていた。
今日もまた現実のはじまりである。
]]>必要があって、入院のときの荷物をごちゃごちゃやってたら透明な袋に入った"だらんこ"が出てきた。「ん?」
袋は錠剤を半分だけもらったときなどに入れてきたもので、密閉できるやつ。それがパンパンになっている。
少し得した気になって手にとってみると、100円や10円や5円や1円や1円や1円・・・。1円ばかりが目立つ。中 にはゲームのコインも何枚か入っていた。
「あ!」
そうだ。思い出した。これは入院中に某T先生がくれていたものを貯めてたものなのだった。
この先生はギャグのつもりなのか、おまじないのつもりなのか、回診にやってくるたびに「1円を数枚」とか「5円と 10円」といった具合に、ぼくにくれていたのだ。
「水虫大丈夫か?」(水虫じゃないって!)
「熱があるって?これ貼っておけば治るよ」(治るか!)
「あ、寝てていいよ。」(足の指の間に5円挟んでいくし・・・)
「今日は日本のお金じゃないよ」(ゲームのコインだろ!)一応その道では「Professor」の肩書きを持っている エライ先生。だから入院当初からよく知っている笑いの血液グループの先生とはいえ、冗談なのか本気なのか分からない部分もあって戸惑 うのだ。
おそらく、そういうぼくの表情を見てさらに楽しんでいたに違いない。
退院が近くなったある日。
ときどきやって来てはくれる"だらんこ"だったが、いつか返さなければ、と使わないで袋に入れてとっておいていた。小額とは いえお金だったし、「もらっちゃえ」となれない性格なのである。
すると、先生はこういった。
「それは君にあげたんじゃない。お母さんに花でも好きだったものでも買って、きちんと(仏壇に)あげなさい」
そうだ。そういえば、うちの母が病院に来ていたときもよく叱られたものだ。
「親孝行してるか。ちゃんと言うこと聞かないとダメだぞ」ほかの先生たちはそういうことは言わないし、この先生ならではの重みのある言葉だった。
母が亡くなって、周りの人は気にしてかそのことを口に出さないようにしてくれていた中、そのことを人前で平然と話す のもこの先生だけであった。ぼく自身は母のことを話してもらうことで、いまでも一緒にいるような気がして嬉しかった。
その先生が半分冗談かも知れないけれど、そう言ってくれた。
「でも、先生、5円とか1円ばかりですよ」
照れくさいとか恥ずかしいとは少し違う気持ちで、そのときはそう話して終わったのだが、それから退院の後片付けやな んかですっかりこの袋の存在を忘れていた。
袋の中を数えてみると530円あった。それにゲームで使うコインが数枚。
せっかくだから、母の好きだったマイルドセブンでも買って(仏壇に)あげようかな。(引用おわり)
以下、ドクターからのメールをそのまま引用しておく。
大ちゃんの母さんは、大の病気が見つかって告知を受けた際に「自分が身代わりになっても助けてほしい」と懇願され ました。 非常にタイプの悪い白血病でしたが、母さんの祈りが通じてか奇跡的に完全寛解に入り、治療を終了するところまで行きました。その治療中に母さんは自転車事後で亡くなりました。みんな、そのことに触れないか、あるいは母さんが本当に身を投げ打って大を生かしたんだとか言って いましたが、本人も家族もつらかったと思います。
大は、その後神経浸潤再発を伴う白血病の大逆襲に遭って再発確認ご数日で母さんのところに行きました。
本の大好きな子で、いつも本の感想を言い合っていました。今でも本を読むとき「ああ、これ大ちゃん好きそうだ」などと思いながら読んでいます。
大のブログは「ここから出発する旅 ~少し立ち止まって、また進む。ゆっくりでいい。夢さえあれば道は真っ直ぐ。~」というブログで残っていると思います。時々覗き込んでいたり、当時の仲間の報告を書いたりしていましたから。
大ちゃんの文章、私もとっても好きです。無許可で転載しても大ちゃんは怒らないし、照れながら喜ぶと思いますよ。(引用おわり)
先生の話によると、大ちゃんは2004年、弘前大学の学生だった21歳のとき発症し、2007年、24歳のときお母さんのもとに旅立たれたそうである。
しかし彼のブログはまだこの世にあり続けている。みなさんもぜひユーモラスだけどどこか切ない彼の書きものに触れてみてほしい。
]]>治療=口内炎=コーヒー飲めない=ドトール行けないだから、治療中はたいへん機嫌が悪い。先生たちや看護師たちにもアタリがきつい。
しかし治療が落ち着いて口内炎も日増しによくなり、ついにブラックコーヒーを一口飲めたときはまさに干天の慈雨、五臓六腑...と四字熟語がブワーッっとあふれだす。
中学生のころ村上もとかのF1レース漫画「赤いペガサス」のドーナツ盤(当時はアニメになってないのにレコードがよくでていた)の歌詞が「オレの血はガソリンの匂いがする」だった。
カルディのマンデリンフレンチ・ダークローストをホールトマト缶やオリーブオイルといっしょにネット注文し家に届けさせコーヒー豆を挽かせて洗濯物といっしょにもってきてもらう。
缶を開けると珈琲の薫風が病室いぱいにひろがる。検温にきた看護師も「いい香りだね」と反応する。
思わず缶の口に鼻を押しつけて吸引する。まえに嗅ぎすぎて鼻にコーヒー粉が詰まってしまいたいそう苦しんだがどうしてもやめられない。
詰め所前の電気ポットは適温である90℃にいつも設定されており、さらに「ドリップモード」というボタンを押すとゆっくりチョロチョロのまさにコーヒー抽出専用湯が出る。
蒸らしたり注いだりをしている間に同じく詰め所前にある体重計や血圧計にのったり腕を入れる。
血圧や脈拍がプリントされるころには一杯のブラックが詰め所まえで薫風をまき散らしている。看護師さんから「いい香りだねえ」と声が聞こえる。
病院に足りないのは音楽と珈琲の香りだ。このふたつが院内あちこちで漂うようになれば、医師も看護師も患者のあいだの潤滑油になるのではないか。せめて1階のドトールだけでもボサノバとかBGMかけてほしい。
採血して、検温に来た看護師に体温とオシッコとウンコの回数を書きこんだ血圧プリントをわたし終わればあとはフリータイムである。
まだ同室の患者たちが寝ている朝5時半、自作超小型アンプ、スピーカー、Pocket WiFI,、iPhone、キーボード、そして仕上がった珈琲を歩行器に積んで食堂出勤。
湘南BeachFM(ブラジル音楽がよくかかる)を聴きながらATOK Pad にひたすら書き殴る。何を書くかはそのときになってみないとわからない。明日は絶対キケ・シネシのことを書くぞと決めて床に臥したが、なぜか一杯の珈琲について書いている。
「ドトールの珈琲っておいしいの?」と千葉の田舎に住む友人からメールが届いた。narjajinさんのブログによくドトールが出てくるので行ってみたくなったのだという。
ドトールの珈琲ははっきりいってあまりおいしくない。それでもぼくがドトールを好きな理由はみんさんもよくおわかりだろう。
友人にはこの記事をまず読んでみてくれと返信した。
と書いてるうちに7時をすぎた。朝ごはんは給食でなく、家からもってきた玄米パン(神奈川県の店「香麦里」)をトーストして友人から頂戴した高級オリーブオイルをたっぷりまぶしその上にサラダ菜、トマト、スライスチーズ、ローストハムをはさみマヨネーズをたっぷりかけてパンで蓋をしさらに垂直カットし断面の地層をまず目で食べ愉悦する。それから口で極楽する。
今日は玄米パンを切らしたので、昨日まずくて半分あましたミラノサンドCの具をチンし、パンだけトースターで焼いて食った。
さあ今日はいよいよバンダポロロッカ。ノドが痛くてカゼぎみ肺炎ぎみだがひさしぶりに会うボサ友たちといっしょに思いっきり楽しませてもらいます。
]]>23日のバンダポロロッカ・ライブイベントに行くボッサミーゴのみなさんへ。
先日のブログで肺炎になったこと、参加がかなり厳しいかもとお伝えしましたが、昨日の回診でドクターT女史にきいたら「いいんじゃな〜い」とのことでした。
さらに今朝の回診では「こっちは出す気満々だ」「薬でしっかり武装して出してやるからマスク二重にしてどんどん行ってこい」といわれました。
とはいえ風邪ひきの多い今の時期に自ら群衆のなかにダイブするのはかなりリスキーなのでボサミーゴのみんなと話しあいリハーサルと第一部のみ参加、もしゴホゴホしているお客さんがいたらお暇するということに決めました。
ぼくのドクターは外出外泊に関してはほんとうに太っ腹で、患者がどうしてもこの日はこれをやりたい、というとそれに合わせて治療プランを立ててくれる。実はもう9月の段階で12月1日のキケ・シネシライブに照準を合わせて抗ガン剤のプランも話し合っていた。
先生がいつも口にするのは、「わたしが興味があるのはその患者さんが生きているかどうかではない。自分のやりたいことをできているかどうかだ」
「70過ぎた白血病のおじいちゃんでも治療を続けながら農作業やってる人だっている」
だから再発して生きがいを失い、あとは死ぬだけだと目も虚ろだったころのぼくにも「本を書かないか」とか「点取り占いの弘大バージョンやらないの?」とか、お菓子くれたりDVDや本を貸してくれたりと、医師と患者というより、常にニンゲンとして相対してくれた。
それからびっくりしたのは「検査データより患者本人の表情やリアクションをみて追加の検査が必要か、薬の処方をするかどうか決める」ということだった。先生はいつもご自分のことを「昔の医者だ」というのであるが、検査データしか見ず、なにかといえばすぐエビデンスを連呼する医者が多いなかで、彼女の眼はつねに患者にまっすぐ注がれている。
ぼくが失神して頭打って出血して床に倒れていたときも、その場にいあわせた看護師は血圧測ったりバイタルをチェックするのみで「大丈夫」の一言さえ言ってくれなかったが、ぼくの先生は黙って手を握ってくれていたのをうっすらと記憶している。
これはおそらく彼女の師匠であるT先生からの薫陶であろう。
このT先生もユーモアがある方で、T女史からきいた話では朝の回診のとき患者の足の指にいたずらして飴や小銭をはさんでいったり「ちゃんと親孝行しているか」と声がけしたり、実に人間味あふれる先生だそうである。
ぼくもお話したいのだが、今は後進を育てる立場で回診のときも若い医師を見守っているだけであまりお話できる機会がない。
でもまえに若くて超かわいい研修医が血液の検査データを一桁間違えて出しちゃったときに、ぼくが「かわいいからOKです」といったらT先生が「それは納得できねえ」とボソッと言い残して立ち去っていったことがあった。
というか、T女史も院内ではすでに指導者側の方なので、今では患者さんを受け持つことはまず滅多にない。それなのに県病で希望を失い死に体同然だったぼくのブログをいつも読んでくれていて、Twitterで「私が診るから弘前に来い」と先生のほうから声をかけてくれたのだった。
思い起こせば6年前、急性骨髄性白血病の告知をこの大学病院で受けたとき、「医師としては勧めないが、ニンゲンとして移植を勧める」といって県病に送り出してくれたのもT女史である。
このときは意味がよくわからなかったのであるが、患者に大変な苦痛を強いる骨髄移植という荒療治を先生は患者さんにやらせたくないんだなと近ごろよくわかった。
大学病院は教育機関でもあるから一人の患者さんを一人の医師が診るのではなく、チーム全員で診る。だからぼくが「どうしても23日行きたい!」とワガママをいうとチーム全員が薬の処方や輸血の手配など陰で支えてくれているのである。
入院当初は回診のとき先生がゾロゾロやってきていやだなーと思ってたけど、今では逆に安心の源になっている。ブログにはいつもそのときそのときの本音を書くことにしているから、自分の気持ちもどんどん変わっているのだとおもう。
再発したこと、県病を離れたことで病気や医療にたいするぼくの態度は大きく変わった。それは先生との再会なくしてはなかったとおもう。もう苦しい思いをして県病でひとりぼっちで治療に耐えなくてもいいんだと思うだけで心がやすらかになるのである。
でも水曜日の部長回診だけはやっぱり苦手だ。
先週土曜に久しぶりの外出許可がでたのでタクシーで帰宅した。
膝骨折した母は見違えるほど元気になっていた。月曜日にギブスがとれると通院介助をしている姉から聞いていたが、このまま弱ってぼけて死ぬんじゃないかとまで心配していたので思ったよりこの人はタフだなと思った。昭和ヒトケタ世代はさすがに強い。
大学病院に入院中の友Nさんとお茶する。こないだお会いしたときは手術してまだ日も浅かったこともありまだちょっとしんどそうなお顔だったが、昨日リハビリ科の前でバッタリ会ったらすっかり元気になって顔が輝いていてこっちもホッとした。
そのあと二人でドトール行ったら寒かったのでぼくは抹茶ラテ、Nさんはブレンドをお持ち帰りして「がんサロン」という院内の小部屋に陣取った。思いがけずムハンマド・ユヌスさんの話になってつい熱弁をふるってしまった。Nさん手持ちのニック・ドレイクやロバート・ワイアットやグレングールドのCDを借してもらった。ロバート・ワイアットの「Nothing Can Stop Us」はレコードしかもってないので久しぶりにきく名曲「at last I am free」に全身が震えた。
検査結果がでるまでまだ時間がかるけど、おそらく初期のがんだから退院の日も近いだろうとのことだった。
で自分はというと、アルケランという抗ガン剤の服用をはじめて白血球が8万から1万台までなんとか抑えこむことができたのだが、どうもちかごろ息が苦しい。CT撮ったら肺炎ですといわれた。
カビに感染したらしいということで採血、抗真菌薬の服用がはじまった。ちかごろ食欲も旺盛だしリハビリで筋肉もついたし調子いいなと思っていたので肺炎の知らせにはさすがに腰が砕ける思いがした。やはり病人稼業は一筋縄ではいかない。その日になってみなければ何もわからない。
今週末のイベントに参加するため足腰のリハビリを続けてきたけど、肺炎が発覚したせいで外出許可そのものが危うくなってきた。
ここは無茶せず12月1日キケ・シネシのライブに照準をあわせ23日はすっぱりあきらめたほうがいいかもしれない。ちまたでカゼがはやっているというし免疫力がハダカ同然のいまプイッと娑婆にでたら肺炎どころではすまないかもしれない。
朝の回診でドクターにたずねてみよう。
]]>仏教に「無記」という説がある。ぼくがいちばん仏教らしい、ブッダさんらしいといつも思う説である。
どういうことかというと、「考えてもよくわからないことはわからないまま放っておけ」ということである。これはおそらく原始仏教、さらにいえばブッダ自身までさかのぼる説だとおもう。ブッダの魅力はこの一言にすべて結晶化されていると思うくらい好きなことばである。
古代インドでは、仏教以外にもジャイナ教をはじめたくさんの修行者たちが己の鋭い弁舌をもってお互いつつきあっていたといわれる。
霊魂はあるのか、来世はあるのか、前世の業は現世来世に降りかかるかなどについて問われたブッダはしかし、何も答えなかったという。
それはなぜか。「毒矢の喩え」が遠回しながらその答えになっていると思う。
「毒矢に射られた人が、矢を射た者はどこの種族か、名前は、弓の種類は、弦(つる)はなんの弦か、矢鏃(やじり)・矢の幹・羽はどんな種類のものから作られたか・・とそれが分からない間は毒矢を抜かずにいるとしたら、彼は毒がその間に体中にまわって死んでしまうだろう」(『マッジマ・ニカーヤ』(中部経典)第63経「小マールンキャ経」)
もし毒矢に射られた人がいたら、まずその矢を抜いてやるのがその人にとって一番の助けであって、なぜ矢を射られたのかわからないから抜けないということはない。人生もわからないことばかりだから死んでしまうということはない。それなのに自分の体に突き刺さった毒矢をまず抜くことをせず、わからないから抜けないと思っているもののなんと多いことか。
ブッダはこの譬えのようにどこか医者めいた印象があって、他にも「応病与薬」つまり病気に応じて薬の処方も変えるように、「対機説法」その人その人にあわせて説法も自在に変えていいんだよという実にフレキシブルな思想をもっていた人だった。
余談になるが、仏教があれだけ分派してそれぞれ煩瑣な教理を発展させたのもおそらくブッダ本人が患者(苦しむ人)それぞれにあわせて言い回しを変えたり、時にはわかりやすいたとえ話にしたりしていた(方便)のを弟子がそれぞれ勝手に拡大解釈して発展させてしまったのであって、ブッダ本人が語っていたのはオカルティックでもミスティックでもなくもっとシンプルな、実際的なものだったとおもう。
実はジャイナ教にも「アネカーンタヴァーダ」という同じような考えかたが古代から伝えられている。「ヴァーダ」というのはラテン語のVideo 、英語のVisionと語原が同じでつまり「見る」「見方」という意味である。アネカーンタはア( not )+ エーカーンタ( one )で「ひとつじゃない( not one )」という意味になる。つまり「絶対こうだと言える見方なんて絶対に存在しない」から、真理についてあれこれ論争してもムダだよということだ。
だからジャイナ教は今日でも他の宗教を批判したり否定したりを一切しないし、かつジャイナ教が絶対に正しいとも主張しないというユニークな態度を貫いている。これはキリスト教でいえばちょうどクェーカー教徒の考え方にいちばん近い。
古代インド思想のなかでなぜ仏教とジャイナ教だけがこのようにかなりフレキシブルというか、とらわれない考え方をしていたのかはよくわからないが、なぜこの二つの宗教だけが21世紀の現代まで残ったかと無関係ではないとおもう。
日本の現代医療は合衆国からやってきた「患者中心主義」の影響で病人の扱いが「患者(ペイシェント)」から「患者サマ(クライアント)」に変わった。患者はお客様であるから患者の質問に医者は必ず答えねばならないし、病状や治療については必ず事前に説明し同意を得ねばならない(インフォームドコンセント)というかなり窮屈なやり方になってしまった。
しかしブッダの無記説のように、医者でもわからないことは答えなくていいし、素直に「わかりません」といっていいと思う。あと余命はどれくらいかとかも人それぞれ寿命というものがあって本音をいえば医者にもそんなのはわからないんだからいちいち聞いたり答えたりする義務はないとおもう。
『医者に何ができるか(The Youngest Science)』で元スローン・ケタリング癌センターの所長であったトマス・ルイスが自伝的に語っているとおり、医学は科学のなかで最も若い分野であるからこそわからないことだらけだし、それゆえに面白いんだといえるのではないか。
医者も患者もおたがいわからないことがこの世にはあるということを共有することこそ両者の信頼関係を深めるのであって、患者に「サマ」をつけたりもったいぶった敬語を交えてコミュニケーションすることなどハッキリいってどうでもいいことである。
テレビ番組にしゃしゃりでてくる評論家どもはすべての問いに答えたがるし、視聴者やディレクターからつねに答えを脅迫されている。テレビで「わかりません」を連発する評論家はありえないがゆえに、彼らの未来予想はたいがい外れる(『選択の科学』のアイエンガー博士が統計的に示した通り)。
いにしえの賢者たちが到達した「無記説」をベースに、毒矢を射られたら何も考えずまず抜くこと。これこそ今ぼくたちが生活に取りいれるべき知恵ではないだろうか。もっと毎日の生活のなかに「わかりません」を増やし、何事も己の直感を信じて決断していこう。
]]>ひさしぶりに1階の自販機コーナーでドリップ式の炭火焼珈琲をポチッとしたら電光ディスプレイに木登りしているサルの絵と大きく「アタリ」の文字が出ている。珈琲の仕上がりといっしょに120円落ちてきた。
滅多に買わないのにこれで二度目である。こんなことで運を使いたくないなあと回診のとき先生方に話したら「アタルときはアタるもんだ」といわれた。
白血球が止まらない。昨日で8万を越えた。倍々で増えている。パチンコでいえばもう玉が台からあぶれて笑いが止まらない状態である。しかし玉が白血球では笑えない。趣味がパチンコという研修医S君にいわせれば弘前の台はまったく出ないらしい。やるときは仙台まで出張ってやるという。
ぼくの白血球も弘前の台なみになってほしい。いま飲んでいるアルケランという抗ガン剤がどれだけ効いてくれるのか。祈るような気持ちで明日の採血をまつ
]]>そんなときは病気のことなどきれいさっぱり忘れて手仕事に励むのだ。
リハビリ科でスピーカーユニット裏の鉄心に穴開け、タッピングの訓練を2回やった。1回目は慎重になりすぎてスピーカーを熱くしてしまった。磁石は熱に弱いのでこれではいけない。
そこで2回目はまずボール盤で3mmの下穴をあけ5mmのドリルで一気に8mmの深さまで掘った。作戦成功である。
練習で手応えを確かめたところでいよいよ本番ブナコスピーカー用10cmユニット(Parc Audio)の穴開けに挑戦。このユニットは防磁型なのでユニット内部の構造がいまいちよくわからない。そこでまず下穴を開けて中をのぞいてみると、なんと鉄芯のど真ん中にネジがみえる。ああそうか、ショートリング(コーン中央の銅製のキャプ)固定用のネジだ。ということで穴あけもねじ切りも実は最初から必要なかったということがわかってしまった。
最初に下見をしておけば穴開けやタッピングの練習の必要もなかったんだ。でも楽しかったし腕に力がついたので顔は生き生きである。
ネットでUltrafire正規品のリチウムイオン充電池18650(保護回路付)と充電器が安く手に入った。エネループのモバイルブースターは5Vしか出せないので自作デジタルアンプ用の12Vバッテリーパックを自作することにした。
リチウムイオン電池は保護回路付とそうでないのがあって、保護回路付電池は回路の厚みぶん電池が長い。なので18650用のバッテリーケースには収まらない。そこでバッテリーケースのスプリングを全部とって銀線に半田を盛って端子がわりにして強引に結線した。
3.7V 2400mAの電池3本を挿入しテスターで測定してみるとしっかり12V以上の電圧が表示された。これでほとんどのデジアンをバッテリー駆動できるだろう。
実際に音を聞いてみた。パワーがあって元気のいい音だが、どこかにぎやかというか、うるさい感じがする。リチウムはエネループに代表されるニッカド系のように強磁性体ではないのでもっとやわらかい音がするかと予想していた。もうちょい使いこむと音も落ち着いてくるかもしれない。
それと当然といえば当然なのであるが、バッテリー駆動にしたらハム音がきれいに消えた。通常は商用電源からコンセントからとるとノイズも乗ってしまうのでアース対策などが必要になる。バッテリーならば商用電源と完全に絶縁できるのでフルボリュームにしてもハム音がまったくでない。
さっそく食堂にもちこんで湘南BeachFMを聞きながらこのブログを書いている。
さすがに裸のままではみっともないのであとはこのアンプとバッテリーを納めるケースをデザインして、またリハビリ科で工作したい。いよいよ木工ですよ
BOSSAMIGO in HIROSAKI 2012
バンダ・ポロロッカ・ライブ
今年もケペルさんが来弘。しかも今回はライブです。昨年のワークショップよりさらにパワーアップしたプログラムで初心者の方もマニアの方もブラジル音楽にどっぷりつかってください。
ケペルさんよりメッセージ
ここのところ毎年弘前でイベントをやらせていただいておりますが、今年はバンドを引き連れてのライブイベントです。前半はブラジル音楽初心者の方々にも分かり易く、CDと生演奏で様々なブラジル音楽をご紹介します。そして後半はバンダ・ポロロッカのレパートリーをお楽しみいただきたいと思います。どうぞこの機会にブラジルの楽しくて自由な音楽に触れて下さい!お待ちしています!
日時:2012年11月23日(祝・金)
時間:18:00〜21:00
場所:JAZZ ROOM UNION(弘前市西弘)
チケット:前売り2600円、当日3000円(1Drink付チャージ無し)
Facebookページ
お問い合わせ
幸田(zooiiooz@gmail.com)
メンバー
ピアノ&アコーディオン&ヴォーカル:須藤かよ
フルート&ピッコロ:吉田一夫
ヴァイオリン:五十嵐歩美
パーカッション:ケペル木村
第1部
ショーロ、サンバ、ボサノヴァ、MPB、フォホーetc...それぞれの代表曲を演奏しながらブラジル音楽の歴史をケペルさんが解説します。
第2部
バンダ・ポロロッカの本領発揮!エルメート・パスコアル、エグベルト・ジスモンチの名曲から果ては雅楽や昭和歌謡まで。
参加者の皆様へもれなく「講座のレジュメとプレゼンチ・エスペシアル・ド・ケペリーニョ!プレゼント!
プレゼンチ・エスペシアルが何かは当日のお楽しみ
家の前に車をとめてそのまま歩行器だけ積んでゲオに行った。みのせ前ゲオにはクローンウォーズのシーズン2までしかなかったので一度見たやつを借りた。
お昼は一本だけ残っていた稲庭うどんに卵と小ネギをかけて食った。病院ではずっと流動食だったのでうまかった。コーヒーを煎れて大学病院ドトールのかぼちゃのタルトを食った。この世のものとは思えぬほどのうまさでこれだけでも家に帰ってきてよかったと思った。しばし浮き世のあれこれを亡失した。
この時点ですでに1時をまわっていた。5時までに帰院しないとだからすぐ2階にいった。
まず先日工作したUSBアンプの音だし。きれいで済んだ音がでた。長いこと病室でヘッドホン生活だったのでまずふつうに音を出せるだけでも気持ちいい。パナソニックのチタンドームのPCスピーカーはほれぼれする音がする。大きいスピーカーへの興味がどんどん消えていく。
先日お金ないのに思い切って SONYのヘッドフォンアンプを買ったのだが音がいい悪いより前にもういいかげんヘッドホンで聞くのが飽きてきた。院内でどこか音をだせる場をさがして小さくても音をだしてきいたほうが気持ちいい。
ちょうどいま誰もいない朝7時の食堂でベートーベンを聞いている。数万円のヘッドホンアンプよりも、300円のアンプできく音のほうが今のぼくにはひたすら気持ちいい。相部屋の患者さんがメシの時間を過ぎているのに病室に戻らない。音楽を聴きながら二人で病気や人生の話をした。彼は10時ころ退院していった。
リハビリで使う工作材料をそろえ終わったころにはもう午後4時をまわっていた。母がつくった手羽先のアプリコット(ルグレのレシピ)煮にかぶりついたあと姉の車に急いだ。
数時間の外出じゃあやっぱり時間が足りない。疲れたので早めに床についたが腹がへったのとおしっこが近くて1時間おきに目をさました。
体重3キロ減っていた。
それにしてもドトールのかぼちゃのタルトは絶品。
]]>朝5時半。仙台の友人からもらった紅茶ガネッシュのアッサムティーにシナモンをちょっとたらして暖まる。テレビをつけてATOK Padに文字をひたすら書き殴る。
十日間の抗ガン剤治療を終え、十日ぶりにお風呂に入ってひさしぶりに長い息をはいた。肩口から入っている点滴になるべくお湯をかけないように案配しながら、風呂桶いっぱいにお湯を満たして少ない割当時間いっぱいを湯船ですごした。
抗ガン剤は終わった後の10日間が副作用もでやすくいちばんの踏ん張りどころだからまだまだぬか喜びには違いないのだけれど、体の中に毎日毒を盛られているという生理的な悪感がなくなるだけでもさっぱどする。
昨日は前日の寝不足がたたって日がなフラフラ過ごしていたが、抗ガン剤、抗生剤、赤血球、血小板と栄養剤の点滴をこなして午後2時半から1階のリハビリテーション科におりて金属加工をやらせてもらった。担当のO先生はぼくの工作好きをよく理解してくれていて、半田付けや金属加工など病棟では絶対できないことを作業療法という大義名分をもってやらせてくれるのだ。
みなさんはあまりご存じないかもしれないが、リハビリテーション科のなかに足を踏み入れるとそこはDIYセンターかとみまがうほど工具設備が充実していて、そこかしこに木材の香りがただよっている。ドトールだけでなく、ここにも脱病院化の可能性が広がっているのだ。
作業療法というといかにも機能回復のための専門的指導を想像されるかもしれないが、要するに誰もが日常やっている動作を地道に繰り返すことが基本になっている。手芸、料理、整理整頓、木工などなど、自分がやりたいと思うことを通じて手足を動かしいくことで、本人の「もういちど」という心を動かしていくリハビリといってもよい。
それがぼくの場合は工作だというわけだ。
実は先日頂戴したばかりのブナコスピーカーの音にどうしても納得できず、はやくも改造のアイデアがもやもやしている。そのためにはまずスピーカーユニット背面の鉄に穴開け、ねじ切りをしなくてはならない。とはいっても入院中の身では材料の買い出しすらおぼつかない。さてどうしたものか。そこでハッとひらめいたのが前回お世話になったリハビリ科だったのだ。
実は前回「何か木工をやろう」というところまで話は進んでいたのだが、その後ぼくが退院してしまったので話は立ち消えになったままになっていた。たしかあのときは簡単なボックスをつくって院内の「がんサロン」にCD整理用としてプレゼントしようなんて話もあった。
入院してるから何も好きなことができないと腐ってばかりいないで、ここは患者ひとりひとりが頭をつかって自分がやりたいことを病院側にも受け入れ可能なかたちにデザインし、交渉していく。社会的には何の価値も利益も生まないかもしれない。しかしこれもニンゲンらしい創造行為といえないだろうか。
第一回目。PC用アクティブスピーカーを分解してアンプの部分だけ抜き出し、300円で買った小さなデジタルアンプの基盤を移植してみた。出力が3Wなので音はかなり小さいが、とても繊細ですっきりした音がでた。テレビやラジオを聞くのにいいなと思った。
よくアマゾンなどであつかっているPC用スピーカーは安いし立体成型のユニークな形のものが多いので、どれも買いたくなってしまうが、いざ買ってみるとやはり値段相応の音がする。分解するとたいていは中国製の残念なアンプが仕込まれている。ここを取り替えるだけで高音質化できることがわかった。
USBの5Vで動くので、もちろんPCにつなげたっていいし、eneloopのモバイルブースターにつなげばモバイル環境でも音が出せる。作っている時間よりも利用場面やそれに適したデザインを考えるのがまた楽しい。
昨晩はよく寝た。今日は外泊許可がでのたで家に戻って素麺に卵かけて食いたい。なぜか無性に漆黒の空間で宇宙船が意味もなく大爆発する絵がみたくなった。とちゅうゲオによってまだ見てないスターウォーズ・クローンウォーズ・サードシーズンを借りまくりたい。
いとこからのコメントがきっかけでヴィクトールフランクルを読みたくなった。家にもどったらちょっと重いけど書棚をあさってみようとおもう。
]]>朝4時30分。昨日まで車いすで下っていた病院1階に歩いていけそうな気がして、点滴を押しながらエレベーターに乗った。まだ暗い自販機コーナーで缶コーヒーを飲みながら新聞を読む男性がいた。彼も点滴をつけていた。自分一人だけの時間を、早起きすることで院内にちゃんと見つけて楽しんでいるようすがうかがえた。
院内に患者が一人を楽しめる場所はないと前に書いたが、それは用意されるものではなく、みずから見いだすものかもしれない。誰もいない場所ではなく、誰もいない時間の豊かさを見いだすということである。それを知っている患者は、不自由な院内にあっても自分の時間を自分でつくりだすことができるのだ。そこにはさりげないながらも、誰もがもっているニンゲンの創造性というものが煌めいているようにおもう。
朝5時。まだ暗い食堂でNHKニュースを見ながらこの文章を書いている。
朝6時。ニュースの内容はぜんぶ既知のものだが、鈴木アナを見るためだけに「おはよう日本」をみる。看護師が食堂までやってきて朝の検温をして帰っていく。
朝7時。飲めるかどうか試しに買った缶コーヒーを飲む。口から歯茎の破片のようなものを吐き出す。
今年もあと2ヶ月。白血病が再発していらい生活のすべてが変わった。なんとか弘前で生きる道を選択してきたが、そのなかでいったい何ができただろう。
仕事をしたり、料理したり、ボサ会のイベントをやったり、誰かとカフェでおしゃべりしたり、そういうなにげない毎日がいまはすべて夢幻のように、まぶしく思える。ああ、なんてすばらしい時間だったんだろうとおもう。健康というものは、失って初めてそのありがたみをかみしめるものだ。当たり前と思うことが実はまったく当たり前ではないということを、多くの人は不幸や病によって畢竟かみしめることになる。
弘前に帰って緩和的抗ガン剤治療を続けていけば自宅で暮らせるものと思っていた。しかし岩木山を眺めながらおいしいものを食べたいという希望は今年の猛暑によってほとんどついえてしまったように思える。
夏も秋もほとんどの時間を院内で過ごしていたきがする。病院が生活の場で、自宅はタクシーでたった10分の距離なのにどんどん遠のいていく。
抗ガン剤治療のだるさで何もできず日がな横になっていると、生きるということを続けるということの意味がゆらぐことがある。こうやって痛みや苦しみに耐えながら病院で寝てばかりいていったい何の意味があるのだろうかと。別に生きていたって、何の意味もないのではないあろうかと。
こういうダウナー気味のときは、面会時間などおかまいなしにやってくる相部屋の患者家族のたえまないおしゃべりがけっこうきつい。家族同士のヒソヒソ話、携帯電話が部屋のあちこちから聞こえる。
津軽の男というものは本当に一人ではなにもできないもので、給食ひとつ食べるにも奥さん付でないとできないらしい。いや、奥さんが一人にさせないのかもしれない。看護師が患者に話しているのに奥さんが答えるというでしゃばりようである。
こういう時の女性はまったくあっぱれなもので、家族をまもるためなら周りの迷惑などおかまいなしにいくらでも非常識を重ねることができるらしい。こういうずうずうしさは男性にはなかなかもてない。男性より女性のほうが長生きなのも、ここらへんに差があるのではないか。
男性の患者より女性患者のほうがメンタルでも強い。これは長いあいだ観察してきたので間違いない。男性は家族以外の前では弱音をはけない。涙もみせない。でも女性は相手が聞いていようがいまいが、身の上話から何から自分のなかの膿を赤の他人にまるで世間話でもするかのように吐き出すことができる。
こういうグダメギ話は男性どうしなら誰も耳をかさないが、相手が女性ならばうんうんと相づちさえ打ってくれる。女性はおたがいにストレス解消のエキスパートなのである。
それに比べると、男性患者はまるで貝のようにカーテンを閉ざし、貝のように自分を閉じている。なかにはnarajin.netのようにブログに書き殴って自慰のような行為を繰り返す男もいる。
抗ガン治療剤も今日で9日目。明日で打ち切ってあとは白血球の下がりを見ていく予定。治療前に個室の話もあって心まちにしていたのだがまだ大部屋にいる。
いつもの口内炎が今回は喉に強くきている。唾を飲むだけで激痛が走る。血小板やヘモグロビンの検査値は目も当てられずよくまあ生きているもんだと我ながら思う。毎日輸血でなんとか保っている状態。
もし午後もこのまま正気を保っていければ、1階のリハビリ科にいって念願の半田付けができるかもしれない。自分の好きなことができるかもしれない。
朝のはじめかたしだいで、その日のすべてが変わるかもしれない。単に寝ているだけの一日が、活動に満ちたものになるかもしれない。
抗がん剤の治療中であっても、習慣というものの大切さを考える。
]]>7月5日 県立病院退院
8月7日 猛暑に耐えきれず大学病院に入院
9月14日 夏バテも回復したので退院
9月28 残暑厳しく脱水症状発熱再入院
10月20日 暑さもやわらぎ白血病の状態も落ち着いているのでいったん退院して自宅で食事と体力をつけることに
10月22日 発熱。白血球の値が10万越。再入院
10月23日 抗ガン剤治療開始
10月28日 抗ガン剤治療6日目 粘膜障害。口内炎痛い。
現在は血小板とヘモグロビンの値がどんどん下がっているので輸血輸血の毎日。抗がん剤はきいてくれているようで一日につき1万ほど白血球は減っている。今ちょうど今日のぶんの抗がん剤はいるところ。
この間にnarajin.netがマルウェアの被害にあってアクセスできなくなるという顛末もあり、多くの方にご迷惑をかけた。結局お金を払って海外の業者に駆除と監視を依頼したので、今後は心配ないだろう
よかったこともいくつかあって、もうほとんどあきらめていたブナコスピーカーが音楽療法士のYさんの尽力によりようやく手にすることができた。
自分の部屋の本やガラクタをおもいきってゴミに出した。今の自分の夢のひとつは、友達を部屋に呼んでおいしいコーヒーを飲みながらゆっくりレコを聴ききたい。レコカフェ空間を提供したい。
最悪だったことは先日母が玄関のたたきでつまずいて転んで膝の皿を骨折してしまったこと。悪いことというのは重なるもので、親も子もいまは自分の面倒で手一杯である。
とまあ書くことがたまりにたまって整理すらおいついてないがブログも復活したということでまずは書いておきます
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