日記は我が苦行なり

Jain Diary:ジャイナ日記

「一日一ジャイン」をモットーにはじめたものの、「飲み会と更新をどう両立するか」に苦悩する毎日。そんなヒマがあったら他のコーナーを充実させるべき、という声も多い。


25.ヴェイユのこと

そもそもジャイナのような霊肉二元論は、現世否定を、まさしく現世で展開するという自己矛盾がその基調となっている。生きながらにして彼らは死んでいることを希求するのである。

ジャイナの自己矛盾としてもっとも顕著なのが、「不殺生」と「自殺行」の実践だ。殺すものと、殺されるものが、自殺行では一体になる。最終的には論理ではなく、あくまで実践によって矛盾を超越しようという決意こそ、ジャイナの気高さにほかならない。

宗教の論理はもともとその絶対不可能性ゆえに魅力的なものになるのだ。ジャイナのような思想にひきつけられるのは、シオランの言う「純粋無垢なるものの異常嗜欲者」である。

中世フランスで栄えたキリスト教の異端カタリ派もその好例であろう。彼らは輪廻転生を信じていたことから「西洋の仏教」と呼ばれたりするが、その異常なまでの一途さからすると「西洋のジャイナ」と呼ぶほうがふさわしい。彼らはジャイナとおなじく禁欲を重んじ、肉を嫌悪するゆえに「自殺行(エンドゥラ)」の慣習さえもっていた。

今世紀のフランスの思想家シモーヌ・ヴェイユが夭折したとき、イギリスの新聞には「食物を絶って死ぬ、フランス人一女教師の異常な犠牲行為」という見出しが載ったという。彼女の死因はいまださだかではないが、カタリ派の「自殺行」を実行したのだという説もささやかれている。ヴェイユは語る。(2003.01.28記)

カタリ派がある種の奇蹟であったというのは、それがひとつの宗教であって、たんなる哲学ではなかったからです。十二世紀のトゥルーズ周辺には、もっとも気高い思想が、たんに一部の個人の精神においてのみならず、人間的な環境のなかで生き生きと息づいていたと、わたしは言いたいのです。なぜなら、わたしが思うに、それこそ哲学と宗教の唯一の相違だからです。思想というものは、人間的な環境に受肉してはじめて、存在の充溢に達するのです。そして、わたしが環境という言葉で意味しているのは、外部の世界へと開かれ、それを取りまく社会にすっぽりと潤され、この社会の全体と接触を保っている何かであって、ひとりの師のまわりに集う弟子たちからなる閉じた集団ではないのです(デオダ・ロシェへの手紙)

24.自発的不便生活その2

前回の思いつきがきっかけで、久々に老子を読み返した。くだんの一節は以下のようなものである。

朴散ずれば則ち器と為る(『道徳経』第二十八章)

朴(ぼく)とは材木のことであり、器とはそれを削ってつくった道具のことである。当然、器のほうが便利だし有用だということになるであろう。しかし老子に言わせると、朴のほうが素晴らしいのだという。なぜなら器は便利であるが、特定の用途以外には全く役に立たない。一方、朴はあらゆる物になる可能性を孕んでいる。一見、まったくの役立たずに見えるものほど、大きな潜在能力を宿しているというのである。

先の魚柄仁之助の言にあてはめると、「超ボロ、不便」が朴であり、「えらく近代的で、便利の極地のようなもの」が器にあたるわけだ。我々の周囲には、器ばっかり増えて、朴がない。そんなライフスタイルには可能性なんてないということになるであろう。

そういえばヒトゲノムもおよそ9割が無意味であり、意味のあるDNAは1割にも満たないという。ここにも朴と器との照応を読みとれないだろうか。

老子の『道徳経』は原稿用紙たった十余枚分の文章量しかないといわれるが、パンチの効いたコピーの連発である。これを機にまたじっくり読み返してみたい。(2003.01.22記)

23.自発的不便生活

こないだ「自発的簡素」の話をしたばかりだが、会社に置いてあった『不況だから元気だ』(現代農業2001年2月増刊)を走り読みしていたら、魚柄仁之助の「自発的不便生活の快楽感」というタイトルが目に飛びこんできた。サブタイトルには「築50年、路地奥のボロ屋を大改造」とある。

どうもちかごろこの手の情報に弱い。先日も、行きつけの八百屋のヒトに「友人が秩父の空き農家を5千円で買った」とか、「千坪の土地と岩風呂つきの曲がり屋を月1万円で借りた」とか羨ましい話を聞いたばかりである。みな、自分の手で古民家を改修して暮らすなど、不便ながらも楽しい自給生活を満喫しているという。

超ボロ、不便ってのは裏を返せば「可能性を持っとる」って事やなかろうか? それは過疎の町にも似とりますど。えらく近代的で、便利の極地のようなものだと、人間が手を加えようにも加えられん。我々の回りにはそげな物がどーんどん増えてきたとです。(「自発的不便生活の快楽感」73ページ)

老子の『道徳経』にも、たしか似たようなエピソードがあったような気がする。今晩でも調べてみることにしよう。(2003.01.20記)

22.ジャイナからのお年玉

永らく更新を怠り申し訳ない。

JAINAの切手

今年もはや1月下旬である。なんということだ。今日だってトイレ掃除に貴重な休日を費やしてしまったではないか。「水回りをキレイにすると運気があがる」という風水の入れ知恵にのせられて、ついつい風呂〜洗面所、流し場までこすりまくりってしまった。しまいには勢いあまって玄関先に盛り塩までおく始末。パーフェクトだ。自分へのご褒美に、銀杏でも焼いて乾杯といこう。

と、新年早々こんなことばかり書き連ねてもしようがあるまい。話題を変えよう。実をいうと先日、文通相手のジャイナよりお年玉を頂戴した。といってもお金ではなく、JAINA(Jain Associations in North America)謹製のオリジナルCDRである。中には主に若い世代に向けての教材が600メガほど詰め込まれており、写真だけでも百点以上収録されている。紙芝居風アニメまであったりと、とにかくJAINAモノがてんこ盛り状態なのである。

なんだかすごいものを頂いてしまった。この興奮をなんと喩えたらよいのであろうか。好きなバンドの未発表ボックスセット。しかも全盛期の。みたいな感じといえばわかってもらえるであろうか。

このなかに、JAINAの切手画像があったので一枚だけ紹介しておこう。ちょっと正月っぽくないですか?(2003.01.19記)

21.長続き

なんだか仕事が忙しくて身動きがとれない。

ジャイナとの往復書簡集「教えてジャイナさん(仮題)」も、手紙がたまってきたのでそろそろ編集しないといけない。こんなとき人は「正月休みを利用して」なんて常套句を持ち出すものだが、自分がおそらく何もしないであろうことは容易に想像できる。まあ、長続きの秘訣は無理しないことだというし、張り切りすぎていつも自爆してきた自分とはなんとしても縁を切りたい。だから仕事もがんばったりしないのだ。雨の休日はタンジェリン・ドリームを聴きながらストーブの焔を観察するのだ。(2002.12.08記)

20.遠くて近いジャイナ

今日から和田恭さんの投稿エッセイを五回ほど連載します。ジャイナを「静謐さ」という言葉でとらえているけど、まったく同感。仕事の合間に読むと御利益が?(2002.11.22記)

19.知なる無知

「宗教」という言葉に、多くの日本人がマイナスイメージを持っている。何か怪しいものとして敬遠している。ほんとうに勿体ない話である。

そういう自分の過去を思い起こしても、宗教にまるで縁のない生活をしていた。小学校のころは猟犬のごとく科学図鑑にかぶりつき、白亜のロボットや宇宙船が、未来社会において科学の勝利を高らかに宣言する光景を夢想して過ごしていた。

ちょうどテレビでは「マジンガーZ」が流行りだしたころで、「宇宙合金Z」や「光子力研究所」といったモノモノしい響きは、イタイケな小学生の心をつかんではなさなかった。それいらいロボット・デザインを描きためるのが日課となり、友達とカッコよさを競いあった。

そんな子供時代をすごしたから、中学・高校もバリバリの「科学少年」だった。おそらく中学のころテレビでみたカール・セーガンの「コスモス」が強烈な通過儀礼になったのだと思う。とくに、十七世紀オランダの科学者、クリスチャン・ホイヘンスの「わたしの宗教は科学である」という言葉に、心底カッコイーと思ったものだ。

ガリレオやケプラーのラディカルな生きざまに魅せられていた当時の自分にとって、宗教は科学者を迷信というムチでいじめる、無知の象徴として映ったのを記憶している。もちろん科学技術がもたらした悲惨な事故や公害問題を知らなかったわけではない。それでも「科学の進歩のためには、多少の犠牲もしかたのないことだ」と本気で考えていたのである。

「科学は学にあらず」という言葉に出会ったのは大学になってからだった。東洋で「学」といえば、もともと万学というか、生命から、宇宙から、すべてを統括する根本原理をさぐるものだった。「易」はその代表であろう。そもそも「学」は「科」に分割できないものなのだ。もし「科」でもって宇宙を分割していくなら、

ブッダやマハーヴィーラや、老子の肉体や死骸や衣を取り出して、コマギレにして店頭に並べて売るようなコッケイなコト(桜沢如一『東洋医学の哲学』)

になってしまう。自分の「学」をみつけねばならない。そのときから宗教の旅がはじまった。

これは多くの科学少年がいつかは味わう挫折なのだろう。ちかごろ新興宗教に入信していく理系の学生たちをみるにつけ、彼らのたどった思考の道筋がわかるだけに、やるせない思いを強くするのである。

こうして、宗教を無知のシンボルと公言していた自分がインドくんだりまで行ってきて、ジャイナのWEBサイトをせっせと更新している。確かに宗教は無知だ。しかし、それは「知ある無知」(ニコラウス・クザーヌス)だったのだ。

そして現在はどうかというと、宗教は科学であり哲学であり、たがいが三つ葉のように支えあっていることもわかった。だからアインシュタインが語った次の言葉も、いまなら心にスッと響く。(2002.11.22記)

宗教のない科学は足萎えです。科学のない宗教は盲人です

18.ボランタリー・シンプリシティ

テリオスを購入しておいて何であるが、今日のお題は「無所有」である。つまり、加えていくのではなく、引いていくことで自由になっていく「マイナスの生活術」のことだ。

この世に執着する人間は、サルのように、財産という枝が彼の足元で折れたとたん、地べたに落ち、泣き、わめき、悔やしがる。
執着のない人間はトリのように、枝が折れても悠々と飛び立っていく。

アマル・ムニ・マハラジ『永久の声』

ガンディーと行動を共にした政治経済学者リチャード・グレッグは、それを「voluntary simplicity (自発的簡素)」と呼んでいた。ただし、ガンディーが無所有の思想を学んだのは、ジャイナではなく、トルストイである。みずからの共同体を「トルストイ農園」という名で呼んだのも、ロシア産のマイナスの生活術を実現するためだった。

説教師としてのトルストイに、もし取り柄があるとすれば、弟子が二人できて、それぞれ、師の長ったらしいお説教から、実効のある帰結を引き出したことだろう。二人とは、ヴィトゲンシュタインとガンディーである。前者はおのが財産を人に分かち与え、後者は、そもそも、わかち与えるべき財産を持たずに終わった
シオラン『告白と呪詛』P227紀伊國屋書店

ヴィトゲンシュタインもまた、V・Sの実践者であったようだ。

戦争から帰ってきた彼が最初になしたことの一つは、所有していた財産のいっさいを、人にくれてしまうことだった。

そのとき以来、ひじょうな単純さが、ときには極度の粗末さが、彼の生活様式となった。ネクタイと帽子をつけた彼なんて、とても想像できない。

「実際の行動が言葉に意味を与える」とあくまで断言するヴィトゲンシュタインが、哲学者たちのおしゃべりに我慢ならなかったというのも納得がいく。彼にとって、宗教とは実践そのものに他ならなかった。彼の思想はよく禅と比較されるが、むしろ信仰より行動を重んじるユダヤ倫理の応用といったほうがいい。ヴィトゲンシュタインはいう。

私の思想は百パーセント、ユダヤ的だ

物欲の権化である作者はというと、さしずめ「百パーセント、スタパ齋藤的」か。(2002.11.17記)

17.マイナー者(しゃ)

先日、岸本佐知子さんのエッセイ集『気になる部分』を同僚から借りて読んだ。

ニコルソン・ベイカーの妙訳で知られる彼女であるが、書き下ろし文も翻訳調なのがおかしい。まあそれはいいとして、「マイナーな人々」というエッセイの中にこんな一節がある。

要するに、マイナーな人々は、機を見るに鈍というか気が利かないというか、なんとなく暗黙のうちに了解されている世の中の約束ごとにまるで盲目である。しかも始末の悪いことに変に頑固だったりするものだから、いつも社会から浮いている。
岸本佐知子『気になる部分』白水社 2000.9.20

さらに、この人々のことを「マイナー者」と命名しているのだが、私がいつも愛してやまない人々のことを端的に表現していて妙に納得した。しかもマイナー者は、社会から浮くどころか、無視されることのほうが多い。

とはいえ、「最も大切なことほど、最も簡単に忘却される」というブライアン・イーノの名言にもあるとおり、大衆が忘却した本当に大切なことを、いつまでも根気強く思索しつづけているのもまたマイナー者なのである。「ジャイナさん」と同じく、彼等もまた実に愛すべき存在ではないか。(2002.11.13記)

16.ぼくのジャイノートPC

cafeglobe編集W女史のススメもあり、Windows CEマシンを購入することに。機種は『シャープ テリオス』。中古で39,800円ナリ。しかも美品。発売当時は13万ほどしたから、ちょっといい買い物である。

これで少しは日記更新がペースにのるといいんだけど。(2002.11.12記)

15.ジャイナ往復書簡集

シカゴ在住のジャイナとめでたく話がまとまった。メールインタビューのような形で、ジャイナのライフスタイルを描写できればと思っている。ほぼ週一で公開していくのでお楽しみに。

だいたい日本では、ジャイナ教の話題といっても古文献をめぐっての解釈論議が多く、生きた宗教としての姿がいまいち見えにくい。彼らもそれに不満を抱いているようである。故中村元博士もこう語っている。

きびしい苦行と極度の禁欲を教えるジャイナ教がどうして今日なお人々の帰依を受けているのであろうか? ジャイナの寺院には、祭のとき、あるいは日曜などに、子供たちが両親や祖父母に連れられて参詣にくる。この子供たちはどのようなことを教えられているのであろうか?

わたくしには、かれらの心を知りたいという気持ちがあった。考えてみれば、いま生きている人々の心を知るということは、ジャイナ教の無数の古典のひとつを読むよりも、もっと大切なことではなかろうか。

中村元『思想の自由とジャイナ教』 P671 1991.3.30

というわけで、聞いてみたいことがあればぜひメールで。あなたに代わって質問させていただきます。(2002.11.09記)

14.何食べてるんですか?

12号で紹介の御仁よりさらなるネタメールが到着。

……「よぐきたねハ」

歓待してくれてありがとう。うれしゅうございました。
「ジャイナ教ってなんだ」は、気長に気長に待っております。

ところで私、先日意に反して殺生をしてしまいました。
家の中に小さな毛虫がいたので、ティッシュでつまんだところ…ブチッ。
ああ、そんなつもりはなかったんだ、ほんとに。しばらく手にあの感触が残り、とってもいやな気持ちでした。

虫も動物も人間も命として一緒だと、昨日読んだ実践編のとこに書いてあったんで、 先日やってしまった殺生を思い出した次第。ごめん、虫。

「命としては一緒」については私も多分そうなんじゃないだろうかと思っていたので すが(だって、人間の命だけ命として特別と考える方が無理があるような気がするん だが、どうでしょう?)、今日も肉や魚を食いました。あ、イカも。

ジャイナの人は、普段何を食べてるんですか?
やはりベジタリアンなんですか。

いわゆる「ピュア・ヴェジタリアン」というやつである。肉魚卵を食べません。酒は人によってそれぞれ。詳しくはパート5「生活編」をご覧あれ。日本在住のジャイナは「天ぷらそば」等でしのいでいます。ちなみに「ジャインレシピ」(英語)なるページも発見。(2002.11.04記)

13.ネタメールその2

今回も読者からのネタメールを紹介させていただく。

奈良さんが運営されているジャインワールドが好きで、
前から度々訪れていたのですが、最近日記を始められたとかで、
大変嬉しく思っている一人です。

ところで、その日記のなかでパエーシ王の話について二日にわたって触れておられましたが、私が修士論文を書いた折りに、拙い和訳を原文から作ったので、もし何かのお役にでも立てれば、と思い、お節介にも送らせて頂きます。

ううむ、またしてもヨネばあさんの出動か。日記やっててよかった。ちなみにいただいた和訳は別ページにしましたのでぜひご覧あれ。(2002.11.03記)→パエーシ王と沙門ケーシの問答

12.すまぬ

うまい日記ネタがみつからず、ションボリして自宅に戻ったら、なんと、ネタメールが届いているではないか。(注:ちかごろ作者はメールのすべてをネタになるか否かという基準だけで読んでいる)

ジャイナ日記書いた?
私はこのところ毎日ちゃーんと読んでますよ。ふふふ。

ジャイナ初心者(初級のさらに前ね)の私、まずジャイナをきちんと知ろうと「ジャ イナ教エッセイ集」へ。パート1はまだ読めないのね…。

それならば、と、実践編をダウンロードして読み始めた。マイナスの人生観、捨て自 慢のところとか気になるんだけど、ちゃんと理解できない不全感が残るなあ。私の理 解力が足りないのか、たましいのいるところが低いのが原因か(きっとどっちも)。 いずれにしろ、基本がわかれば、もうすこしわかるのじゃないかと思うの。

そんなわけで「ジャイナ教ってなんだ」読んでみたいなあ。期待してます。

なんと有難いお方であろうか。こんな辺鄙なサイトを訪れてくださるとは。ここはひとつ青森のヨネばあさんのごとく「よぐきたねハ」と長旅の労をねぎらうのが人情というものであろう。 手土産のひとつに、「ジャイナ教ってなんだ」のPDFドキュメントを小さな手に握らせるくらいの気遣いが求められるところだ。しかし...

実はエッセイ集は20代のころ書いたもので、自分では顔から火が出るほどハズカシイ出来なのである。ただいま全面的リライトにむけ再起動中で、まずは日記でリハビリ療養というなんとも情けない状況なのだ。

それまでは、この日記で辛抱してくれい。(あ、でもメールはください)(2002.10.30記)

11.神はサイコロ遊びがお好き?

七つのアングルを編集することで、ひとつの全体モデルを浮上させようとするスヤード・ヴァーダ(*)の一連の手順は、現代画家デヴィッド・ホックニーのカメラワークを連想させる。アングルも被写体距離もちがうポラロイド写真どうしが、たがいに独立でありながら独立でなく、一枚の写真として構成されるという「写真的な写真」の不思議さ。

 そもそもジャイナのアネカーンタ・ヴァーダ(*)自体に、そんな写真的要素がある。無限のグノーシス世界を何枚ものフィルムにおさめて、それをジャイン・ダルマという「無限的な有限」に編集したのが、マハーヴィーラという悟性の写真家だったのだ。

 ピカソの絵も参考になるかもしれない。キュビズムというものは、まずフォルムをいったん分析・解体してしまう。そして断片となった多数のアングルをパズルのように組み上げ、モデル化していくという手法がとられている。

 物理学者ニールス・ボーアはなんとキュビズム作品のコレクターだったそうだが、おそらくキュビストの手法こそ物理学の諸問題を解決するカギになると直感していたのだろう。ボーアは言う。

自然というものは、一つの視点から見るにはあまりにも精妙である

 彼もジャイナと同じ発想から、あの「相補性原理」を紡ぎだしたのであろうか。となると、「神はサイコロ遊びはしない」と語ってボーアを批判したアインシュタインは、さしずめヴェーダーンタというところか。

(*)スヤード・ヴァーダ、アネカーンタ・ヴァーダって何? という方はエッセイ集パート4「論理学編」をご覧あれ。 (2002.10.29記)

10.拝啓Unknown氏

サイトの引越しついでに「アクセス解析」なるものを追加してみた。

作者はこの手の情報がけっこう好きで、仕事で納品したサイトについても、毎日解析ページをのぞいては一喜一憂している。

ページビューが気になるのはもちろんだが、何曜日の何時あたりにアクセスが多いとか、検索エンジンにどんなキーワードを入力してたどりついたかとか、ユーザーの日常をかいま見るようで結構たのしい。

ちかごろ気になっているのは、日本以外からのアクセスが33%ほどあること。3割といったら無視できない数である。そこで、米国なのか、ヨーロッパなのか追ったところ、プログラムは"Unknown"と返してきた。五大陸以外からのアクセス? そんなとこってあるのか? いやはや謎である。

この日記を見たUnknown氏から謎解きのメールが届くことを期待しつつ。(2002.10.28記)

9.女性に人気?

「ジャイナ教美術は女性に人気アリ」というのは結構正しい気がする。

カーンチープラムのジャイナ寺院に新しい画像を追加しながら思ったけど、これは宗教とか関係なくただ単純にカワイイ。これに比するものをしいてあげるとすれば、『ベアトゥスの黙示録註解』くらいか。

両者に共通しているのはいずれも「ぶっ飛び具合」が終始一貫していること。思いつきなんかではなく、スタイルまで昇華されきっているのが恐ろしい。しかもカワイイのだから手がつけられない。(2002.10.27記)

8.ジャイナさん

習慣とは恐ろしいものだ。

「毎日更新」宣言からまだたった一週間というのに、すでに毎日更新体質というか、一日がそれを中心に回っているというか、それが終わらないとビールも喉を通らないという末期症状に及んでいる。

朝起きるとまず、「今日の日記ネタは何にしようか」と一瞬考えこむ。電車に乗っても、デスクについても、「あれが残っていたな」とか、「あれとこれを混ぜ合わせれば」とか、まるで主婦が冷蔵庫の前でもらす一人言状態に陥ってしまったのである。

みなの前で公言した以上、下手を打ってはならぬとついついオリコウさんを演じてしまうのがどうもいけない。悲しいのは三才までの躾の良さ。このままでは「自爆→2年間の沈黙→引っ越し」という毎度のパターンを踏襲するのは火をみるより明らかだ。

と、ここまで書いて、「そんな話、ジャイナに関係あるのか!」 というお叱りの声が聞こえてきそうである。実はジャイン・ダルマのもつ「不器用なまでの一徹さ」というのは、案外こんな切り口からすんなり入っていけるのではないかと散歩しながら脳裏に浮かんできたのだ。

本当はここでシモーヌ・ヴェイユの話をしたいのだけれど、おそらく終わらなくなるので次回にゆずることにしよう。古代より連綿と継承されてきた「不器用派」の豪華な顔ぶれ紹介って企画もやってみたい。

あなたの周りにもいませんか。ついつい小事にも人生を賭してしまう「ジャイナさん」が。(2002.10.26記)

7.柿間俊彦氏のインダス写真館

ふう、やっとできたよ。ぜひ見てね。(2002.10.25記)

http://bosei.cc.u-tokai.ac.jp/~indus/mizu.html

6.やりたいこと

このごろなんだか燃えている。やる気もある。体調もすこぶるよいのである。2年ほどほったらかしにしてたジャイナのサイトを毎日更新してるなんざ、自分でもただごとじゃないと思う。

ま、それはよいとして、今後の計画をすこし発表することにしよう。作者はどうも有言実行型のようで、周囲に「あれをやる」と宣言しないと何もしないタイプらしい。たまに「あれはどうなったの」といさめるヒトがいないと、ほんとになんにもしないのである。

というわけで、日記にでも書いておけば、どっかの親切なヒトがメールで指摘してくれるんじゃないかと淡い期待をしているわけだ。

ただし「こんなページみてるやつなんかいるのか」というツッコミだけは勘弁してほしい。それを言われちゃ、作者は猟銃で撃たれた小鳥のごとくパタッと死んでしまうであろう。そこはあえて指摘しないのが「親切なヒト」の最低条件なのである。

前置きはこれぐらいにして、計画発表といこう。

  1. ジャイナ巡礼地マップ作成
  2. ジャイナ美術をどんどん追加
  3. 在俗信者ディネシュ・ジャインとの一問一答集
  4. ダルマの解説
  5. 電子テキストダウンロードサービス
  6. ジャイナ日記の毎日更新

1.はインド旅行者のガイドマップとして。2.はおそらくこのサイト中で一番注目度が高いがゆえ。3.は古代の文献からではなく、現代に生きるジャインの見解を紹介してみたいから。そして4.なんですが、電子ブックの形ではなくて、やはり閲覧性に優れたHTMLにしたい。5.は、どこから落としたか忘れたジャイナ文献が何メガ分もあり、このままでは死蔵になるから。ほんとは作成者に許可をとりたいのだけれど、ページがみつからないんだよね。

そして6である。実はこれがいちばん無理っぽいなあ...(2002.10.24記)

5.霊魂その2

先日は深入りしないと言っておきながら、「その2」とはなんだ、とつっこまれそうである。実は昨日、職場からの帰宅途中に「似たような話を渋澤龍彦もしていたような...」と考えはじめたらどうにも納まりがつかなくなり、自宅に戻るとさっそく書棚をほじくり返してしまったのである。見つかったらやはりちょっと引用しておきたくなるのが人情というものであろう。これで、パエーシ王側の証人としては文句のないメンツが揃ったわけで、弁護人のぼくとしてはとても満足に法廷を去ることができそうだ。(2002.10.23記)

 ボードレールが「玩具のモラル」のなかで述べている次の言葉も、私にはとくに参考になるものだ。

「大部分の子供というものは、玩具の生命を見たがる。玩具の寿命を長びかせるか否かは、この欲望が早く遅うか遅く襲うかに係っている。私には、こうした子供の奇癖を咎める勇気はない。なにしろこれは子供の最初の形而上学的傾向なのだから」

 形而上学的傾向とは、うまいことを言ったものではないか。たしかに、或る種の破壊衝動には、形而上学的傾向に通じるものがあるような気が私にもする。

 これも子供のころの話だが、私は節分の夜、豆まきにかこつけて、茶の間の電球に力いっぱい、一握りの豆をぶつけてみたことがあった。電球は乾いた音を立てて割れ、赤い焔がぼうと吹き出した。豆をぶつければ割れることは分かっていながら、どうしても実験してみたいという誘惑に抗することができなかったのである。

渋澤龍彦『玩物草紙』P127 白水社 1987

4.霊魂

霊魂はあるか、ないか、という質問にジャイナは当然イエスとこたえるわけだが、それを証明しろとなるとずいぶん苦慮するだろう。これについては、いにしえのジャイナ僧もつねづね考えていたらしい。聖典のなかにも、霊魂の有無を論じたパエーシ王と修行僧ケーシの対話が伝えられている。

 犯罪人を処刑して体を切り刻んでみたのだが、ついに霊魂なるものはみつからなかった、とパエーシ王がいうと、修行者ケーシがこたえるには、それは火をつくろうと思って薪を切り刻むよりもっとバカらしい、見えないが霊魂はたしかにあるのです、といったという。ずいぶん気のきいた喩えである。

しかしパエーシ王のやったことがアホなことだとはどうも思えないのである。むしろ、人間ならば誰でも覚えのある普遍的行為なのではないか。まあ、ここではあまり深入りせず、エーリッヒ・フロムを援用して終わるとしよう。(2002.10.22記)

 〜イサーク・バーベリはそのあたりの事情をきわめて簡潔に表現している。ある作品のなかで、ロシア内乱のときの同僚の士官が、かつての主人を足で踏んづけて殺した後、次のように言う。「俺いにわせれば、銃で撃ったんじゃ、たんにあいつをあの世に送るだけだ。……銃で撃ってしまうと、魂ってものがわからない。それが人間のなかのどこにあるのか、どんなものなのか、わからない。俺はめんどうくさがらずに、一時間以上、何度も何度もあいつを踏んづけてやった。俺は、命ってものがほんとうは何なのか、命は人間の体のなかでどんなふうになっているのか、知りたいんだ。」

 子どもは、しばしば、こうした方法によって何かを知ろうとする。何かを知りたいと思ったとき、子どもはそれをばらばらに分解する。動物をばらばらにすることもある。秘密をむりやり引っぱり出そうとして、蝶の羽を残酷にむしりとったりする。この残酷さは、もっと深い何か、つまり物や生命の秘密を知りたいという欲望に動機づけられているのだ。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』紀伊国屋書店

3.数学者

 大道数学者ピーター・フランクルさんの部屋を雑誌でみたことがある。

 「数学をやるなら紙と鉛筆さえあれば、あとは何もいらないからね」と語る彼の部屋は、シンプルというより文字通り何もない。冷蔵庫にもジュースがポツリとあるくらい。まさしく「財産は自分の頭脳だけだ」といわんばかりのたたずまいである。数学者という人種は、知識はためこんでも、物にはまるで執着がないらしい。

 彼の部屋を見ながら、ぼくは大学時代の友人を思い出していた。そいつも数学科に籍をおいていて、二日に三食という、いささか分数的な食生活を営んでいた。テレビやステレオとか大学生の一人暮らし必需アイテムもなく、部屋には黒いコタツと、数学書をキッチリつめこんだ本棚がひとつだけしかなかった。冷蔵庫はいつも紙パックの牛乳だけが収まっていた。

 そいつは自分のことをブッディストであると公言していて、サークルの会議なんかでは、いつもアウトサイダーを演じていた。彼にとっての会議とは、まさしく懐疑の対象にほかならず、決して安易な妥協はしなかった。確かにあいつはブッディストだったのだ。

 しかし人間は変わるものである。現在の彼は「人生いろいろ」が口癖の、何でもオーケー男に見事に転換していた。彼の人生に何があったのかはわからないが、ブッディストであり続けることはたいへんだな、と思った。(2002.10.21)

2.仲御徒町のジャイナ寺院

東海大学のインド展にて知り合ったジャイナに誘われて、東京は仲御徒町にあるというジャイナ寺院に行くことにした。日本在住のジャイナ教徒のほとんどが宝石商なんだそうで、上野界隈が彼らの活動拠点というのも頷ける話である。

紫色のディスカウントショップ「多慶屋」が軒を連ねるこの町は、心もちインドのバザールを思わせる雑多でやかましいところであるが、ジャイナ寺院そのものは駅前からはずれた閑静な路地の一角にある。とはいっても外観はただの4階建ビルで、その中の一室を間借りしているとのことだった。

1階のエレベーター前にてみな靴を脱いでいるので「なんじゃ?」と首を傾げたが、4階に着いてみて納得。扉が開くとそこはもう礼拝場所で、面食らう間もなくそそくさと後座に移った。

10畳ほどあるフロアの壁際に12代目ティールタンカラであるバースプージャ像が鎮座している。口紅と胸の装飾のキュートさ具合からみて、ここがシヴェタンバル(白衣派)の礼拝場所であることが見てとれた。はて? 連れは空衣派だったはずだが? 「東京じゃ他にないから、しょうがないの」ということであった。このアバウトさ加減が私を愉悦せしめたことはいうまでもないであろう。(2002.10.20)

1.未来のジナ

 さて、ジャイナが語る「完全なる人間」の肖像を思うたびに、ぼくはどうしても幼少のころTVで親しんだロボットヒーローたちの姿を重ねざるをえない。

 彼らは感情をもたないがゆえに、自分の欲求をもたない。表情ひとつ変えず、不平をこぼすこともなく、ひたすら闘い続けるのである。不殺生という立場からみれば、ビルなんかを壊しまくるという点でなるほど失格かもしれないが、やがては自身の崩壊をももたらす彼らの無茶な生きざまには、「ピタゴラスの豆」の逸話を想起させるような哀しき滑稽さがある。

ロボットたちの純粋さは、人間が求めても絶対得られぬがゆえに、求め続けてしまうのもまた事実なのだ。

 ジェイムス・キャメローン監督のSF作品「ターミネーター」は、その点でロボットのもつ純粋さを巧みに演出したといえるだろう。この映画の冒頭は、一作目も二作目も決まってサイバーダイン役のアーノルド・シュワルツネッガーが裸形で登場するところからはじまる。裸形=異能者という象徴の図式は、和田正平が指摘している通りであるが(*)、この古来から続く異能者のイメージをキャメローンはSF作品の演出として見事に採用している。

 劇中でもっとも注目したいのは「ターミネーター2」のラストシーンである。みずからの意志によって溶鉱炉のなかに身をひたしていくシュワルツネッガーの姿は、ジャイナの自殺行そのものではないか。これは鉄腕アトムやジャイアント・ロボ、そして「2001年宇宙の旅」に登場するコンピュータ・HALの死にも通じる、ロボットたちの「自殺神話」といえるだろう。彼らには感情がない。カルマがない。だから死の恐怖というのがまったくない。彼らこそ「未来のジナ」なのだ。21世紀の聖人たちは、案外こんな局面から生まれてくるのかもしれない。(2002.10.19)

(*)和田正平『裸体人類学〜裸族からみた西欧文化』中公新書1211/1994