この世の名誉、栄光のたぐいはすべて、追いかければ追いかけるほど遠ざかる自分の影のようなものです。それにそっぽをおむきなさい。ひとたびあなたが太陽にむかって進みだせば、今度は影のほうからイヤでもあなたについてくるでしょう。
アマル・ムニ・マハラジ著 『アマル・ヴァニ』P65
42.名誉
78.自己救済
最近話題になることの多い自己救済の問題について考えてみたい。サンタローザで開催された実存主義者の会合ではこの種の話題が多かったのだが、私は席上苛立ちを爆発させ、救済を求める人間を尊重する気になれない旨を発表した。それというのも、救済を求める人間は利己的で、他人や社会に対して何の貢献もなしえないからだ。さらに、こういう人間は心理学的な意味においても愚者であり、過ちを犯している。自分だけが救われる道を求めるなど、自己救済の方法としてはとにかく邪道もいいところだ。そのときの講演で述べたことだが、自己救済に通じる唯一の正しい道とは、日本映画『生きる』(自分がガンだと知った主人公がいったんは投げやりになるが、それまで勤めていた役所での仕事ぶりとはまったく違う新しい自分らしい生き方で、社会にも役立つ生き方を探る黒澤明監督の一九五二年の映画)で描かれているような道なのだ。つまり、まじめに働くこと、自分が運命づけられた「天職」を何としてもやりとげようとすること、それが救済につながるのである。(2004.01.25記)
アブラハム・マズロー 金井壽宏 監訳 大川修二 訳『完全なる経営』 P12 日本経済新聞社 2001.12.17
54.裸の男の子
マイスター・エックハルトはひとりの美(うるわ)しい裸の男の子と出会った。
そこで師はこの子にどこから来たかたずねた。男の子は答えた。「神のところからやってきた。」
「どこに神を置いてきたのかい」
「徳のある心の内に」
「どこへ行きたいの」
「神のところへ」
「神はどこで見つけるの」
「すべての被造物から離れたところ」
「君はいったいだれ」
「王」
「君の王国はどこ」
「心の内」
「誰かにふみこまれないよう気をつけなさい」
「そうするよ」
そこで師は男の子を彼の部屋につれてゆき、語った。「どれでもいいから好きな上着を取りなさい」
「そんなことしたら王でなくなってしまう」
そう語って男の子は姿をかき消した。
それは神自身であった。神はわずかの間であったが、マイスター・エックハルトと共に過ごしたのであった。
田島照久編訳『エックハルト説教集』P263 岩波文庫
男たちのジャイナ
前にジャイン・ワールドにて公開したテキストに写真をそえてみました。
「男たちのジャイナ」
埴谷 雄高、中村 元、高橋 和巳も写真が入手できしだい追加したい。
それにしても偉人というのはある種の色気というか、男の魅力がある。写真を並べてみるとなんとも匂い立つようだ。
つくっていてAppleの懐かしい広告「Think Different」を思い出した。
それとスティーブ・ジョブスのことばも(”The Whole Earth Catalogue“が原典だったとは!)。
「ジャイナのABC」ハジメマシタ
毎日午前3時ころ便意をもよおして目がさめます。
2〜3回ほどたっぷりと出てしまいます。
そうするとお腹がすいてきてクラッカーをぼそぼそと食べます。
喉が渇くのでコーヒーが飲みたくなる。
まわりの患者さんは高いびきで寝ていますから、Macを歩行車に積んで食堂まで移動。
給湯器もまだ眠っているので電子レンジにて一杯ぶんのカプチーノを沸かします。
ネスカフェのインスタントのやつがけっこうおいしい。
それから朝食までの時間、カプチーノをすすりつつ訳出した「ジャイナのABC」ベータ版をここに公開します。
これまで印度学仏教学の偉い学者さんらが書いたジャイナ教の解説書にはのぞめなかった、「生きた宗教」としてのジャイナをどれだけ伝えられるかに注力しました。
「ここがよくわからない」とか、「日本語が変」とか、みなさんの厳しいツッコミをお待ちしております。
シュレーシュティン
インダス社会の基本的な思想の力は宗教であって、勇気や武力ではなかった。このことはその後の数段階のインド社会についても繰り返しあてはまり、戦争、侵略、征服や無秩序という力の時代と交互する平和な宗教的停滞にあてはまる歴史の類型である。インダス流域では停滞は長く強固であった。(100)
グジャラート州のアヒンサー
インド人とお酒ほど不釣り合いなものはない。
そんな彼らも西洋文明にすっかり毒されたのか、近ごろではどの州でもたいがい酒はおくようになった。南インドのタミル・ナードゥ州など、リカー・パーミットなしでは旅行者でさえ一滴も飲めなかったというのに、いまでは酒屋がどやどや軒を並べているという始末だ。
イーデス・ハンソンさんの「インド片恋い」を読んでいたら、アーマダーバードに住む彼女のお兄さん夫婦に、こっそりウィスキーを差し入れする場面があった。グジャラートはインドのなかでも飲酒にはとくに手厳しい州だ。まず第一、どこにも売ってない。この土地では酒の空きビンさえみつけることは困難だ。
西インドのグジャラート州バブナガルのホテルで、ベジタリアンターリーを食べながらその話をしてみたら、「アラビア海に浮かぶディーウ島にいったら酒が安く飲める」と宿泊客のオジサンがいう。抜け道はちゃんと用意されているらしい。
闘争するアヒンサー
動物を殺すのはかわいそうだとか、そんなセンチメンタルな気持ちからアヒンサーを叫ぶわけではない。感傷など自己欺瞞にすぎないのだから。それは哀れみとも違う。アヒンサーは感情を伴わない。必要なのは霊的意志のみだ。魂の問題をどこまでも究明し、精神をどこまでも鋭利化させたその頂点から、アヒンサーが流れ出すのである。
世界と自分との関係に意識的になること。そのための闘争がアヒンサーだ。だから、社会のありとあらゆる場面でアヒンサーが立ち上がるのを理解できるだろう。それを政治の場面に応用したのが、かのガンディーなのである。
「私はアヒンサーの百戦錬磨の兵士である(抵抗するな、服従するな)」
アヒンサーが行動主義に結びつくと、それはラディカルで、ときにはインペリアニズムに対抗する強力な「愛の武器」になる。それをガンディーは「サティヤーグラハ」という造語で表現した。「真理の実践」という意味である。彼にとっては「アヒンサーこそ最高の宗教」だった。
しかし俗世を離れた個人だけが救済を約束されるジャイナの解放論に、ガンディーはどうしても同意できず、アヒンサーを全人類の救済原理にまで高めることを生涯の仕事とした。「すべての人の目から涙を拭い去ること」ができるまで、天国には行きたくないと彼は考えたのである。ガンディーはジャイナを大乗化したといえるのではないか