早起きすると、いつもとはまったく違う一日がはじまる。いつもと違った自分がみえる。
朝4時30分。昨日まで車いすで下っていた病院1階に歩いていけそうな気がして、点滴を押しながらエレベーターに乗った。まだ暗い自販機コーナーで缶コーヒーを飲みながら新聞を読む男性がいた。彼も点滴をつけていた。自分一人だけの時間を、早起きすることで院内にちゃんと見つけて楽しんでいるようすがうかがえた。
院内に患者が一人を楽しめる場所はないと前に書いたが、それは用意されるものではなく、みずから見いだすものかもしれない。誰もいない場所ではなく、誰もいない時間の豊かさを見いだすということである。それを知っている患者は、不自由な院内にあっても自分の時間を自分でつくりだすことができるのだ。そこにはさりげないながらも、誰もがもっているニンゲンの創造性というものが煌めいているようにおもう。
朝5時。まだ暗い食堂でNHKニュースを見ながらこの文章を書いている。
朝6時。ニュースの内容はぜんぶ既知のものだが、鈴木アナを見るためだけに「おはよう日本」をみる。看護師が食堂までやってきて朝の検温をして帰っていく。
朝7時。飲めるかどうか試しに買った缶コーヒーを飲む。口から歯茎の破片のようなものを吐き出す。
今年もあと2ヶ月。白血病が再発していらい生活のすべてが変わった。なんとか弘前で生きる道を選択してきたが、そのなかでいったい何ができただろう。
仕事をしたり、料理したり、ボサ会のイベントをやったり、誰かとカフェでおしゃべりしたり、そういうなにげない毎日がいまはすべて夢幻のように、まぶしく思える。ああ、なんてすばらしい時間だったんだろうとおもう。健康というものは、失って初めてそのありがたみをかみしめるものだ。当たり前と思うことが実はまったく当たり前ではないということを、多くの人は不幸や病によって畢竟かみしめることになる。
弘前に帰って緩和的抗ガン剤治療を続けていけば自宅で暮らせるものと思っていた。しかし岩木山を眺めながらおいしいものを食べたいという希望は今年の猛暑によってほとんどついえてしまったように思える。
夏も秋もほとんどの時間を院内で過ごしていたきがする。病院が生活の場で、自宅はタクシーでたった10分の距離なのにどんどん遠のいていく。
抗ガン剤治療のだるさで何もできず日がな横になっていると、生きるということを続けるということの意味がゆらぐことがある。こうやって痛みや苦しみに耐えながら病院で寝てばかりいていったい何の意味があるのだろうかと。別に生きていたって、何の意味もないのではないあろうかと。
こういうダウナー気味のときは、面会時間などおかまいなしにやってくる相部屋の患者家族のたえまないおしゃべりがけっこうきつい。家族同士のヒソヒソ話、携帯電話が部屋のあちこちから聞こえる。
津軽の男というものは本当に一人ではなにもできないもので、給食ひとつ食べるにも奥さん付でないとできないらしい。いや、奥さんが一人にさせないのかもしれない。看護師が患者に話しているのに奥さんが答えるというでしゃばりようである。
こういう時の女性はまったくあっぱれなもので、家族をまもるためなら周りの迷惑などおかまいなしにいくらでも非常識を重ねることができるらしい。こういうずうずうしさは男性にはなかなかもてない。男性より女性のほうが長生きなのも、ここらへんに差があるのではないか。
男性の患者より女性患者のほうがメンタルでも強い。これは長いあいだ観察してきたので間違いない。男性は家族以外の前では弱音をはけない。涙もみせない。でも女性は相手が聞いていようがいまいが、身の上話から何から自分のなかの膿を赤の他人にまるで世間話でもするかのように吐き出すことができる。
こういうグダメギ話は男性どうしなら誰も耳をかさないが、相手が女性ならばうんうんと相づちさえ打ってくれる。女性はおたがいにストレス解消のエキスパートなのである。
それに比べると、男性患者はまるで貝のようにカーテンを閉ざし、貝のように自分を閉じている。なかにはnarajin.netのようにブログに書き殴って自慰のような行為を繰り返す男もいる。
抗ガン治療剤も今日で9日目。明日で打ち切ってあとは白血球の下がりを見ていく予定。治療前に個室の話もあって心まちにしていたのだがまだ大部屋にいる。
いつもの口内炎が今回は喉に強くきている。唾を飲むだけで激痛が走る。血小板やヘモグロビンの検査値は目も当てられずよくまあ生きているもんだと我ながら思う。毎日輸血でなんとか保っている状態。
もし午後もこのまま正気を保っていければ、1階のリハビリ科にいって念願の半田付けができるかもしれない。自分の好きなことができるかもしれない。
朝のはじめかたしだいで、その日のすべてが変わるかもしれない。単に寝ているだけの一日が、活動に満ちたものになるかもしれない。
抗がん剤の治療中であっても、習慣というものの大切さを考える。
「人生におけるミッションというものは、つくるものではなく発見するものである。」
「全ての人は、人生における独自の仕事あるいはミッション(使命)を持っている。
その点において、誰もその人のかわりになることはできない。そして自分の人生を
繰り返すこともできない。したがって、そべての人に与えられている使命とそれを
実施する機会は、その人独自のものである。」
「終極において、人は人生の意味は何であるかを問うべきではない。
むしろ自分が人生に問われていると理解すべきである。一言でいえば、すべての
人は人生に問われているのだ。自分の人生の責任を引き受けることによってしか、
その問いかけに答えることはできない。」
ビクター・フランクル (夜と霧の著者)
それでも人生はイエスという