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医者も患者もわかりません

昨日ふと気がついたら移植後6年生存を達成していた。完治を祝った去年がいまでは幻のようである。人生一寸先はまっくらでありいったい何が起こるかなんて誰にもわからない。わからないことはいくら考えてもわからないんだから、病気のことは医療チームにまかせっきりにして自分は「わかりましぇん」でいくことに決めた。

仏教に「無記」という説がある。ぼくがいちばん仏教らしい、ブッダさんらしいといつも思う説である。

どういうことかというと、「考えてもよくわからないことはわからないまま放っておけ」ということである。これはおそらく原始仏教、さらにいえばブッダ自身までさかのぼる説だとおもう。ブッダの魅力はこの一言にすべて結晶化されていると思うくらい好きなことばである。

古代インドでは、仏教以外にもジャイナ教をはじめたくさんの修行者たちが己の鋭い弁舌をもってお互いつつきあっていたといわれる。

霊魂はあるのか、来世はあるのか、前世の業は現世来世に降りかかるかなどについて問われたブッダはしかし、何も答えなかったという。

それはなぜか。「毒矢の喩え」が遠回しながらその答えになっていると思う。

「毒矢に射られた人が、矢を射た者はどこの種族か、名前は、弓の種類は、弦(つる)はなんの弦か、矢鏃(やじり)・矢の幹・羽はどんな種類のものから作られたか・・とそれが分からない間は毒矢を抜かずにいるとしたら、彼は毒がその間に体中にまわって死んでしまうだろう」(『マッジマ・ニカーヤ』(中部経典)第63経「小マールンキャ経」)

もし毒矢に射られた人がいたら、まずその矢を抜いてやるのがその人にとって一番の助けであって、なぜ矢を射られたのかわからないから抜けないということはない。人生もわからないことばかりだから死んでしまうということはない。それなのに自分の体に突き刺さった毒矢をまず抜くことをせず、わからないから抜けないと思っているもののなんと多いことか。

ブッダはこの譬えのようにどこか医者めいた印象があって、他にも「応病与薬」つまり病気に応じて薬の処方も変えるように、「対機説法」その人その人にあわせて説法も自在に変えていいんだよという実にフレキシブルな思想をもっていた人だった。

余談になるが、仏教があれだけ分派してそれぞれ煩瑣な教理を発展させたのもおそらくブッダ本人が患者(苦しむ人)それぞれにあわせて言い回しを変えたり、時にはわかりやすいたとえ話にしたりしていた(方便)のを弟子がそれぞれ勝手に拡大解釈して発展させてしまったのであって、ブッダ本人が語っていたのはオカルティックでもミスティックでもなくもっとシンプルな、実際的なものだったとおもう。

実はジャイナ教にも「アネカーンタヴァーダ」という同じような考えかたが古代から伝えられている。「ヴァーダ」というのはラテン語のVideo 、英語のVisionと語原が同じでつまり「見る」「見方」という意味である。アネカーンタはア( not )+ エーカーンタ( one )で「ひとつじゃない( not one )」という意味になる。つまり「絶対こうだと言える見方なんて絶対に存在しない」から、真理についてあれこれ論争してもムダだよということだ。

だからジャイナ教は今日でも他の宗教を批判したり否定したりを一切しないし、かつジャイナ教が絶対に正しいとも主張しないというユニークな態度を貫いている。これはキリスト教でいえばちょうどクェーカー教徒の考え方にいちばん近い。

古代インド思想のなかでなぜ仏教とジャイナ教だけがこのようにかなりフレキシブルというか、とらわれない考え方をしていたのかはよくわからないが、なぜこの二つの宗教だけが21世紀の現代まで残ったかと無関係ではないとおもう。

日本の現代医療は合衆国からやってきた「患者中心主義」の影響で病人の扱いが「患者(ペイシェント)」から「患者サマ(クライアント)」に変わった。患者はお客様であるから患者の質問に医者は必ず答えねばならないし、病状や治療については必ず事前に説明し同意を得ねばならない(インフォームドコンセント)というかなり窮屈なやり方になってしまった。

しかしブッダの無記説のように、医者でもわからないことは答えなくていいし、素直に「わかりません」といっていいと思う。あと余命はどれくらいかとかも人それぞれ寿命というものがあって本音をいえば医者にもそんなのはわからないんだからいちいち聞いたり答えたりする義務はないとおもう。

『医者に何ができるか(The Youngest Science)』で元スローン・ケタリング癌センターの所長であったトマス・ルイスが自伝的に語っているとおり、医学は科学のなかで最も若い分野であるからこそわからないことだらけだし、それゆえに面白いんだといえるのではないか。

医者も患者もおたがいわからないことがこの世にはあるということを共有することこそ両者の信頼関係を深めるのであって、患者に「サマ」をつけたりもったいぶった敬語を交えてコミュニケーションすることなどハッキリいってどうでもいいことである。

テレビ番組にしゃしゃりでてくる評論家どもはすべての問いに答えたがるし、視聴者やディレクターからつねに答えを脅迫されている。テレビで「わかりません」を連発する評論家はありえないがゆえに、彼らの未来予想はたいがい外れる(『選択の科学』のアイエンガー博士が統計的に示した通り)。

いにしえの賢者たちが到達した「無記説」をベースに、毒矢を射られたら何も考えずまず抜くこと。これこそ今ぼくたちが生活に取りいれるべき知恵ではないだろうか。もっと毎日の生活のなかに「わかりません」を増やし、何事も己の直感を信じて決断していこう。

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