幸い私は「大学」と縁を切ることができました。外国へ行ったきり国へは帰らなかったから、その分、縁を切るのは簡単でした。おかげで学位論文を書く必要もなければ、大学の教職にもつかずに済んだわけです。その後は、自分は「私的思想家」-と言えば、いささか大げさかも知れませんが、でもやっぱりそういうものなんだと思ってきました。ヨブは、「私的思想家」と言われていましたが、まあ、もっとも、私的思想家になること、ヨブのエピゴーネンになることは私の野望でした。私がだれかの弟子だったとすれば、さしずめヨブの弟子でしょうね。もし大学の教職などに就いていたら、こういう野望はみんなご破算になり、私にしても、いずれは野望のことなど忘れてしまったでしょうね、教職に就いていたら、しかめつらしい文体と、没個性的な思考の採用を余儀なくされたでしょうから。いつだったか、講座の正教授であるフランスの哲学者に「あなたは個性を失うために給料をもらっているんだよ」と言ったことがありますがね。こういう人たちが、やれ「存在論「だの、やれ「全体性の問題」だのについて論じているんですよ。
私には職業もなければ義務もない、私は自分の名においてしゃべることができる。私は独立の人間で、教えなければならない義務もない。書いているとき、出版される本のことなど念頭にはなく、私は自分のために書く。申し上げておかなければなりませんが、この無責任さ、これが私の幸運であることがわかったんですよ。私は誰にも頼らなかった。すくなくともこの点では、私は自由だった。問題を考えるときは、自分の職業とはかかわりなしに考えなければならないし、まったく周縁人の立場に立たなければならないだろうと思っています。もちろん私は先駆者などではなく、せいぜい......そうですね、ひとりの周縁人というところでしょうか。(2004.01.23記)
シオラン著 金井 祐訳『シオラン対談集』 P251 法政大学出版局 叢書ウニベルシタス586
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