人前で「生きる意味」とか「人生の意味」といった言葉をなんのためらいもなく口にできる人などまず滅多にいないとおもう。照れくさいからなのか、それともかっこ悪いからなのか。だからアンジェラ・アキの声を借りて歌ってもらうのであろうか。なぜ意味や価値や尊厳といった言葉にたいして斜に構えるのであろうか。
アウシュヴィッツのような限界状況にあっても、人生に意味を見いした人間のほうが生き残る確立が高いというヴィクトール・フランクルの主張は東日本大震災においても実証されるかもしれない。畢竟、生きる意味さえあれば人間はどんな限界をも突破できる。生きる意味を言葉にして伝えるのが宗教家の仕事ではなかったか。
宗教者の自分がいまできることは生きる意味をもう一度考える手伝いをすること。立ち上がれない人、社会的、経済的に復興に参加できずにいる人に、細く長く係わっていきたい
東日本大震災の仮設住宅で「お茶会ボランティア」を続ける僧侶 佐藤良規(さとうりょうき)さん
東奥日報201112.07朝刊
人生に意味があるかどうかということは問題にならない。人生の意味をさがす意味を求めることは病気である。目は目を見ることができないように。意味をさがすことが人生の意味ではない。
この世はなるほど無常であってもよい。しかしニンゲンは無常にさえ意味を見いだす心を何万年もかけて発達させてしまった。それはむしろ意味への意志とでもいうべきものだ。意味への意志というのは後天的に獲得する能力というより、人間の心の構造そのものに根ざした意志であるといわざるをえない。いやむしろ個人的な努力によって獲得するのは無理である。
かつてネアンデルタールなど多種多様な人類がこの世を生きていたのに、なぜホモ・サピエンスだけが残存できたのだろうか。われわれの祖先たちは、みずからの力ではどうにもならない過酷な運命にたいし、「意味」という心の斧を磨製石器のごとく研磨することで乗り越えてきのではないだろうか。
だからこそ生き残った人は一様にそのような希望を「いただいた」「あたえられた」と表現するのではないだろうか。ここに宗教の誕生がある。さらにいえば、彼らが見いだした意味とは、なかんづく他者からの呼びかけに応えることであった。
呼びかけとは愛する人や家族、そして友人などかぎったものではない。道ばたの草花や夕焼けに赤く染まった岩木山、自分を包みこむあるとあらゆるものからの呼びかけに気づくということである。
フランクル風にいえば呼びかけとは、自分が人生の意味を追い求めるのではなく、人生の意味が自分に何を求めているかという問いの転換が起こるということ。
これこそ限界状況で体験する意味の爆発、つまり至高体験の正体である。自分自身の経験からいっても、一度これを体験したものは二度と人生を失うことはない。
コメントする