アイデアが浮かぶということと、アイデアを形にすることはまったく別の仕事。前者を仕事にしてもいいし、後者でもいいし、その両方でもいいが、ニンゲンというものは他者からの呼びかけさえあればどちらでもできるようにできている。自信がなくてもニンゲンはそうできているので自信をもってよい。
ことばにできないおぼろげなイメージを追い続け、いざ紙に写そうとしても筆がまるで動かないからといって悲観することはない。夢のなかで自分が自分のイメージする自分よりも創造的だと感じるならば、それは自分自身がそうなのだという夢のお告げ。それを無視する自分がいたらそれこそ悲観せよ。
本当の勇気は謙虚さとして地上にあらわれる。これは古の賢者たちが伝えるとおりである。デザインもそうだ。自分のちっぽけさを感じるくらい大きな対象と毎日格闘すること。このとき全身にみなぎるものは自信や野望ではなく、謙虚さである。
労苦に満ちた一日の作業もまるで皿洗いのごとく淡々とこなせるようになったら、人生の苦しみの大半は労せずして精算されているといってもよい。それはただ、「今日のところはまずまずこれでよし」と思えるかどうか。それとも「やっぱり今日もできなかった」と考えるか。
夏目漱石が自身の執筆のようすを「器械的」と手紙に書いているのは、つまりそういうこと。まるで軍隊のごとく規律的生活というものが、創作活動にもいえるということ。インスピレーションを待つのではなく、一日の決まった時間を実作業に投じること。神は神を考えていないときにふと訪れるものだ。
デザイナーにとっての働きがいとは、絵空事やスケッチにすぎなかったかたちを誰もがさわったり見たり聞いたりできるかたちに変換できたとき。イメージの世界から物理界へのコンバート。タルティーニの「悪魔のトリル」よろしくいくぶんイメージは間引かれているかもしれないが、ニンゲンはそれでよしとすべき。
だから自分にとって新しい何かに挑戦するとき、全身にみなぎるものはぜひとも謙虚さでなくてはならない。宇宙の神秘のまえにたたずむホモサピエンスのような気分で、あくなき好奇心と冒険心をもって一日の作業をせっせと器械的にはじめること。
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