便が思うように出ず日に何度もトイレにこもる。座り疲れのせいか横になってばかりいる。先生からは「アイスやスイカが好物のようだが腹を冷やすな。腹巻きはあるか」とメールがありその通りだと反省するも今日もお昼に宅急便でおいしそうなアイスクリームとスイカが届く。
自宅に戻って十日ほどたった。ウチゴハンも食えるようになり、友人からのお手紙を読んだり差し入れの美味を味わうにつれ、また新たな心が芽生えるのを感じる。すべては「生きろ」という呼びかけなんだと。ブログやツイッターのレスも、どんな有様であってもいいから生きることをあきらめるなという無数の声なんだと。
音楽を聴いても、おいしいゴハンを食べても、死を忘れているのは最初の何日かだけで、日が経つにつれて何をしても不安が頭からはなれない。これは誰しもごまかしようのない虚無であり、おいしいアイスクリームだけでは満たすことのできない暗黒である。世界中で末期ガンをたずさえて生きている無数の戦士たちの心の内というものを思う。最後までニンゲンらしく生きるとはどういうことか。病は勝ち負けなのか。死んだら負けなのか。
もう自分はじゅうぶんがんばった、死ぬなら弘前で死にたいという思いだけで脱走同然に帰ってはきたものの、このまま、ただひたすら死を待つことがほんとうに自分らしいことなのかどうか。
県病にいたころはホスピスや在宅医療や残された時間のことばかり考えていたが、もういちど生きるという作業を最後まであきらめずに続けることこそ友人たちの思いに応えることではないかと心の声がきこえる。
仮に治療の途中で息絶えたとしても、そのほうがただ自宅で死を待つよりも悔いがなく死ねるのではないか、などと県病にいたころとは全く逆のことを思い始めている。県病のK医師の言葉どおりだ。「人は何もせずだまっていることができないから」。
もう一度完治にむけて挑戦できるのか。歩けるのか、トイレに一人で行けるのか、体力の心配はつきないが、まず寛解をめざした治療をやってみようかという気持ちが屋根を激しく打つ豪雨とともに沸き立つのを感じる。
「 @piroko0618
今朝、ふと実感した。「今が過去と未来を創ってる。」頭ではわかってたけど、実感を伴って理解した感じ。過去が今を創ってるんじゃないんだよ。本当に。本当に。」
ツイッターでともだちが、こうつぶやいていました。なにか、ヒントを得たように思い、narajinさんとも共有したいと思いました。
震災で亡くなった方を目撃しました。
突然終わる人生もあることを見せつけられました。
生まれた以上必ず終わりは来る訳で、生き方死に方に答えはないでしょうが、私としては長生きしてくれりゃそれに越したことはないです。
emikoさん、おっしゃるとおり過去も未来も自分でいつでも変える自由がニンゲンにはあるということをふだん忘れがちですね。常に、この瞬間の自分がすべてをつくっています。どんな境遇であれ、この世を恨んで生きるか、感謝して生きるかも、他人ではなく自分が選択できます。
ごっつさん、長生きできるかどうかわからないけど、どう生きるか、どう死ぬかを選べる自由は誰にでも与えられています。すべては自分で選べるのです。その自由をみずから放棄しないことが最後までニンゲンらしくあるポイントではないかと思います