むかしのデータを整理していたら会社勤めのころ社内研修用に作ったPDFをみつけた。久々に読み返してみると自分が書いたものとは思えないほどよくまとまった文章なので感心してしまった。たぶん29歳のころ書いたものだとおもう。若さというのはすごいものだ。他にも「デザイナー色を好む」というタイトルで色彩についてのメモもみつかった。これも自分で読んで面白かったので次回アップしたいとおもう。
はじめに
池上(当時の上司)さんからはデザインの技術というより案出し、発想法、もしくは考え方について話してほしいということですので、ぼくとしてはデザインという言葉にこだわらずに、その周辺も徘徊しつつ、雑学的に話を進めたいと思っています。もちろん、これから話すことははあくまでぼく個人の考え方です。ひとつの参考として受けとめてもらえればそれで結構です。
見えないものを見るということ
つっこんだ話に入る前に、まずは「デザインとは何か」におおまかな定義を与えることから始めたいと思います。それは次のようなものです。
デザインとは「見えないものを見えるようにすること(カンディンスキー)である
つまり、デザインとは「形なきものに、明確な形(フィギュア)を与えること(メイクアウト)」なのです。無から有を生み出すこと、内(イン)なるものを外(アウト)なるものに変換する。これは、エディット(編集)という言葉がもともと「発表・表現する(ギブアウト)」という意味であったり、エデュケイト(教育)が「社会に出す(ブリングアウト)」を意味するように、多くの表現活動に共通する概念です。だからデザインする人は、内にこもったり、消極的になるのではなく、積極的に対象を外に向けて発表するという心構えがまず必要になります。
さて、デザインの発想法や技術は後にゆずるとして、ここでまず注意してほしいのは、デザインとは決して「すでに形あるものを飾りつけること(デコレーション)」ではないということです。クライアントや編集者からもらったラフの構成そのままに、タイトルをワクで囲ったり、マックで安易につくった疑似立体コケオドシ図形を挿入してお茶を濁し、それをデザインと称するコマッタチャンもたまにみかけますが、それは歓楽街の看板のワクにネオンを焚くがごとき、ただの風俗のようなものです。これからデザインをする際には、これを一つの価値基準、発想の原点にしてもらえればと思います。
デザインは案出しと図工の「図案」からなっている
大きな枠組みをしつらえたところで、もっと我々の仕事に近づくような、現実的な定義を加えてみましょう。
デザインとは、図案のことである。
案(企画、意図)を図にすること(図工)、これをセットで図案、つまりデザインといいます。もしくは意匠と言い換えてもかまいません。くどいようですが、決して「装飾」ではありません。「装飾」が対象に要素を加えていく「プラスの美学」であるならば、デザインには対象の本質(ネイチャー)だけに着目し、それ以外の贅肉はそぎ落としてしまうという「マイナスの美学」があります。古代の文様と二〇世紀のモダンデザインは特にこの傾向が強く、音楽でいえばロックやパンクのようなものといってもいいと思います。
この「図案」という言葉はそんなに古いものではありません。奈良時代にデザイナーにあたる言葉は「桃紋師」で、平安時代からはアイディアをだす「案家」と、それを具現化する「図家」とにわかれました。
明治6年、西洋から伝わった「デザイン」という言葉を日本語に置き換えるために、それらを組み合わせた「図案」という言葉がはじめて創作されたといいます。
ここで注意してほしいことは、案(アイディア)を含まないデザインは、デザインにあらず、ということです。表現する対象がいくら変わっても、毎回似たような仕上がりで上げてくるデザイナーは、案出しの作業をなおざりにしているという点でいわば「流して」いるのです。割り切っているのです。また、ただなんとなく出来上がったもの、感覚で仕上げたような図も、意図に欠けるという点で厳密にはデザインとは言えません。
欧米では、「野心」「陰謀」「殺害の計画」にも、「デザイン」の一語をあてています。つまり、実際の作業(それが作図であっても、殺害であっても)の前に何かしら作為・意図がともなってはじめてデザインという言葉を使えるのです。
その昔、早稲田の森で元自由民権運動のリーダー大隈重信が「私はデザイナーである」と語ったことがあるそうです。その理由として重信は、「俺は国民の暮らしを良くするために議会壇上で料理をする立派なデザイナーだ」と説明しました。
国民の欲求を、政策というしかるべき形にするという意味では、確かに政治家もデザイナーといっていいと思います。こうしてみると、人生のあらゆる局面で、デザインという概念が立ち上がることがわかるでしょう。
デザインとは「いのち」に「かたち」を与えること
最後はちょっと雑学的な話で一回目の終りにしたいと思います。それは、「かたち」という言葉自体のもつ深い意味合いについてです。大和ことばで「かたち」の「ち」というのは、もともと「生命」のことだといいます(杉浦康平)。これは地と血の「ち」、さらに「いのち」の「ち」にも通じています。つまり「かたち」あるものにはすべて「いのち」が宿るという万物有魂(アニミズム)の思想が、この「かたち」という言葉にこめられているのです。
つまりデザインとは、「いのち」に、「かたち」を与えることであるともいえるということです。この考えは、現在でもあらゆる民族・文化のあいだで「文様」という形で継承されています。ちょっと話しをデカく広げすぎましたが、人間は古代から、水や火などの自然現象を抽象化し、土器など身の回りものすべてになんとか「いのち」を与えようと努力してきました。こうしてみると、デザインとは人間の手すさびなどでは決してなく、食べることや、愛することと同じく、もとは人間の本質的な活動の一つなのです。
ですから、我々もたとえどんなやっつけ作業であってもできるかぎりの切実さで、少しでも本質的なかたちを盛り込んでいく努力だけは怠らないようにしなければならないと思うのです。(おわり)
私も昔デザインも人を感動させられれば芸術ではないかと、「デザイン」と「芸術」の違いを散々考えました。
結果
デザイン→商業的価値を付帯させ価値を向上させるもの
芸術→商業的な意味を付帯させない又はそのものが商的価値
その他→自己満足
と結論づけました。
ただし上記土器などは「デザイン」が時間の経過で「芸術」と変化した例でしょう。
ちなみに私は「アールヌーヴォ」ではなく「アールデコ」派です。
デザインと同じく、芸術という言葉も明治以降に日本に入ってきたもので、ヨーロッパにおいても15世紀までは芸術という概念はありませんでした。
商業的価値、つまりビジネスとデザインは本来なんの関係もありません。単に、ビジネスの側でデザインを利用しているだけです。つまり、ビジネス抜きでデザインというのは存在しえるということです。現在アートと呼ばれるものも、いささかビジネスの側面が否めないものが多数あります。芸術とデザインの線引きを商的価値をもって判断したところで本質は何もみえないでしょう。
縄文土器に商業的価値は当時なかったでしょう。でも何らかの意図をもって作られている、つまりデザインされているのです。ぼくたちは縄文人がこめた思いがわからないので、単に作品として博物館で鑑賞するしか能がなくなってしまったのです。
縄文時代
「お前の作ったナベ格好いいな。魚5匹と交換してくれ」
という会話があったら立派な商業的価値があったのでは?
ところでネットで「デザインと芸術の違い」で検索するとnarajinさんと考えを同じくする方が多数おられましたが、「デザイナーと芸術家の違い」の場合「芸術家は自分を満足させるものを作り、デザイナーは他人(クライアント)を満足させるものを作る」感じの考えが多数あり、「家」がつくと仕事が変わるようです(笑)。
でもって和製英語(?)に変換すると芸術家→アーティスト、デザイナー→クリエーターとなり本来の意味に戻るような違うような・・。
>「お前の作ったナベ格好いいな。魚5匹と交換してくれ」
という会話があったら立派な商業的価値があったのでは?
繰り返しになりますが、「デザインは商業価値を付加させ価値を向上させる」ためだけのものではないということです。
たとえば縄文土偶はかならず壊された状態で発掘されます。これは何か呪術的な意図をこめてあえて壊して埋めたわけです。その意図を果たすために縄文人は土偶というかたちをつくった、つまりデザインしたといえるわけです。それが売れるか売れないかはまた別の問題であって、自分のつくった土偶が誰にも売れない、商業価値がないからデザインではないということにはなりません。
このブログも商業的価値はまったくありませんが、デザインされていると思いませんか?
「このブログも商業的価値はまったくありませんが、デザインされていると思いませんか?」
素直に同意します(笑)。
しつこくてごめんね(笑)