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もうテレビは買いません

人はときに自分でも不思議におもう選択をみずから下すことがある。

先月あたりだったとおもう。前からほしかったソニーの液晶テレビ(ブラビア)をアマゾンで買ったのだが、届いてすぐ母にくれてしまった。自分でもなぜそうしたのかわからないし、もらった母も素直に喜べず、さかんに気味悪がっていた。

しかし白血病の再発がわかり、家をしばらく空けることが現実となった今思えば、テレビを母の部屋に設置したのはまったく正しい選択だったわけである。

これを単なる偶然だとぼくは思わない。実は6年前、骨髄異形性症候群だとわかったときもやはり、ソニーのテレビを買っばかりのときだったからだ。そしてこのテレビもまた、ぼくが入院してから、そして今も母のものでありつづけている。だからもう新しいテレビは二度と買うまい、という選択を今また新たにしたところである。

ニンゲンは自分でもそれと気づかないうちに、内なる声に耳をかたむけ、毎日さまざまな選択をしている。アイエンガー教授の「選択の科学」ではないけれども、人生とはまさに選択そのものであり、同時に結果でもある。

選択といっても人にとって解釈はいろいろだろうと思うが、ぼくにとって選択とは、判断、決断、実行の三つのことである。この「判断・決断」の根拠になるものは、データよりも直感に頼ったほうが後の満足度が高いという統計的事実もまた、アイエンガーさんの主張するところである。

実行を選択の一部としたのは、実行をともなわない選択など選択ですらなく、ただの想像や思案にすぎないとおもうから。実行のない選択なんて、クーラーの効いた快適な部屋でソファに寝そべりながらサハラ砂漠の映像を見ているような、空虚なものだとおもうから。

だから選択の結果は現実となってあらわれる。明日の昼メシの選択がラーメンという現実になり、病気の場合ならば退院という現実になったり、その逆であったりする。

もっとシンプルにいえば、選択とは自分そのものだ。今の自分のありようこそ、それまで自分がなしてきた選択の結果そのものなのだ。

だからニンゲンは、自分の人生を自分で作り出すことができると思っている。そういう意味でぼくは運命論者でも虚無論者でもない。人間の意思と勇気の力を信じてやまない、ニンゲン主義者なのだ。

ぼくがこのブログに書き綴ってきた断章に一貫して流れるテーマとはまさに、ニンゲン讃歌である。どんな惨状にあってもニヤニヤしながらブログを書いているある動物の生態を写生するための物見小屋、それがナラジンドットネットだとおもっている。

それでは今の自分にとってもっとも重要な選択とは何か。白血病氏は気が短い。こうしてブログを書いている間にも体内では腫瘍細胞が倍々ゲームで増殖を続けており、命の選択を迫ってくる。医師とじっくり納得のいくまで話し合うとか、セカンドオピニオンをお願いしてみようとかクヨクヨ考えている時間などまったくないのだ。まず次の手を今すぐ選択することこそ、いちばん重要な選択なのである。

自分の直感を信じ、そうと決めたらすぐ実行する。直感が「進め!」と指し示すのは、経験からいっていつも苦難に満ちた暗黒の森であることが多い。だから選択にもっとも大切なもの、それは知性や経験よりも、闇の恐怖に立ち向かう勇気である。「選択の勇気」。これこそアイエンガーさんが学生たちに伝えたいことなんだと思う。

古代ゲルマン人は「ヴァルハラ」という天国を信じていたそうだが、そこに入れるのは勇者だけだと考えていたらしい。おそらく、あの世は勇気をもつものでなければちっとも楽しめないほどスリルに満ちた世界だと想像していたのであろう。仏教やキリスト教にくらべなんと豪快な天国であろうか。

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