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苦しみと滑稽味

たしか夏だったと思う。腫瘍マーカーの検査結果を手にした主治医の口からはじめて「ほぼ完治」のことばが発せられた。5年前、無菌室のなかに横たわっていたころには夢のまた夢だった願望が、ついに現実化した瞬間である。どんだけ嬉ぶかと思いきや、意外にも静かな自分がいた。ともかくも、ひとつの難事をやり遂げたという言葉にならない嘆息を漏らすのみであったことをよくおぼえている。

喜びというものは、幸福にとってほんとうに必要であろうか。それよりも、ひとつの苦しみが終わったときの、あの何ともいえぬホッとした心持ち、充実感こそ言いしれぬ人生の味わいではないかとおもう。それは一日のつらい労働がともかくも終わりを告げたあと、ひとり居酒屋で飲むビールのなんともいえない苦味にも似ている。

変な言い方をすれば、ぼくにとって幸福にはぜひとも苦しみが必要なのだ。だから苦しみを自ら望んだフランシスコ・ザビエルは同時に、自らの幸福をまっすぐに求めたニンゲンでもあったのだと今では思うようになった

よく人から「前向きだ」(新聞にも書かれた)とか「病気としっかり向き合っている」とか声をかけられることがある。いわれた当人にすればとんでもない話だ。実情はそんなリッパなものではない。日々是、ただ痛みと苦しみがあるのみである。例えるならば、海底で息ができず七転八倒しているダイバーのようなもので、そこには冷静な思考も観想も何もあったものではない。苦しみの最中というものは、苦しさを感受する余裕すらないというのが本当のところである。苦しみには前向きも後ろ向きもない。ただただ苦しい、痛いのだ。これがぼくの5年間であり、そして白血病が完治した今となっても何も変わりがない。

なぜブログを書くのかと問われたら、それは書かねばとてもやりきれぬ時があるからだ。それを他人が見てどう思うかというよりは、自身が発狂しないためにぜひとも必要であり、もっぱら自分のためだといえる。

Twitterも同じだ。自分にとっては、コミュニケーションツールというよりも、排泄ツールであり、140字弱の排毒である。端からみれば終わりのない嘆き節にみえようが、絶望の垂れ流しにうつろうが、そんなことはどうでもよい。ただ、書くと痛みが楽になるというだけで書く。

ブログを読んでくれる友人たちにもし望むことがあるとしたら、それは同情や哀れみや励ましではない。むしろ滑稽におもってほしい。クスッとしてほしい。それがぼくにとっての喜びといえば喜びかもしれない

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